伊藤和史獄中通信・「扉をひらくために」

長野県で起こった一家三人殺害事件の真実。 そして 伊藤和史が閉じ込められた 「強制収容所」の恐怖。

雑記

 伊藤和史の上告審判決期日が、4月26日15時に指定された。

 今村弁護士から、「長野の会」に連絡があった。私は数日間メールをチェックしておらず、ついさっきそれを知った次第だ。
 もはや、何も言いたくない。一月に満たない期間で判決が出るのだから、当然上告棄却だろう。
 裁判所はこの数年間、何を見て、何を聞いてきたのか。
 私は二度と、検察や裁判所の正義など、信じることはない。

 司法官僚たちは、自らの犯罪に失敗し、反撃を受けたという理由だけで、その罪をすべて消し去った。そして、伊藤や、金父子から被害を受けた人々の傷や苦しみに目と耳をふさぎ、伊藤たちを死に追いやったのだ。

 私事多忙のため、更新が滞りがちとなってしまっている。これは、本来であれば今年の初めには書かれているべき記事であった。伊藤や関係者には、申し訳ない次第だ。

 ご存知の方も多いかもしれないが、伊藤和史の最高裁弁論期日が、指定された。
 2016年3月29日である。
 判決は、4月の末か5月上旬ぐらいだろう。控訴審から上告審判決まで、およそ2年2か月。松原よりも、さらに早い判決となる。
 減刑となることを期待したいが、これまでの状況を見るに、とても期待することはできない。何をするべきか、とても思いつかないのが正直なところだ。
 これからは、再審請求を行っていくしかないのだろうが、果たして私は確定後も伊藤と交流を持つことができるのだろうか。伊藤は交流を申請してくれるようだが、東京拘置所が許可を出してくれるかは不透明である。

 2月15日の面会日、伊藤は笑顔だった。
 しかし、内心では死と、それまでの孤独を受け入れる決意を固めていた。身辺を整理し、家族との縁を切るべきではないかと考えているようだった。
『僕のことは忘れて、幸せになってほしい』
 家族について、何度もそう口にしていた。確かに、死刑が確定してしまえば、伊藤は家族のもとに帰ることはできないだろう。伊藤の内妻たちは、これまで伊藤を支えてきた。しかし、伊藤の死刑が確定すれば、死刑囚を身内に持つ苦痛ばかりではなく、帰ることのない夫を待つ現実も、のしかかってくる。それが、伊藤には耐えられないようだ。
『悪いことをした自分が悪い』
 伊藤は、幾度もその言葉を繰り返した。私は、それを耳にするたびに、不条理を感じた。確かに、伊藤の行為は法に反しており、無罪とは言えない。しかし、伊藤を搾取し、傷つけ、死さえも考える心境にさせたのは、金父子たちの犯罪行為である。
 「逃げればよかっただろう」と、裁判官や裁判員、検察官は、得々と判決や論告で述べていた。もちろん、家族にどのような不幸や犯罪が降りかかろうが、構わないというのであれば、逃げることはできた可能性はある。裁判官・裁判員諸氏であれば、法を破るよりも、家族の不幸や死を選んだのかもしれない。
 しかし伊藤にとって、内妻たちは初めて持つことのできた、大切な家族だった。自分自身の命より、大切に思っていたかもしれない。そのような人々を切り捨てて逃げることなど、できなかったのだ。
 付け加えれば、金父子の徹底的な監視や追跡により、逃亡が成功する可能性は、ゼロではないにせよ相当程度低かった。つまり、伊藤の「逃亡」することへの期待可能性、殺害を行わない期待可能性は、金父子たちの犯罪行為自体が、低下させていたのである。 
 
 私が面会室を出るとき、伊藤は、いつものように笑顔で手を合わせていた。
 この笑顔を、あと何回見ることができるだろうか。

 松原智浩の最高裁判決が、9月2日に指定された。

 最高裁弁論から、ほぼ一か月半。破棄減刑となるには、あまりにも早い期日指定に思える。
 もちろん、冤罪を主張して最高裁で破棄差し戻しとなり、大阪地裁で無罪判決を受けた、大阪母子殺害事件のような事例もある。この事件の被告は、2010年3月26日に最高裁弁論が行われ、同年4月27日に破棄差し戻し判決を受けた。ちなみに、第一次控訴審判決は、2006年12月15日である。控訴審判決から上告審判決まで、3年4か月。この期間も、長いとは言えない。
 しかし、最高裁がまともな反応を返したのは、証拠が状況証拠のみで、被告が冤罪を主張していたからだ。被告側の主張が取り上げられた例は、死刑事件の場合、無罪主張が殆どである。
 最高裁で、死刑事件の量刑不当が認められたのは、大阪の強盗殺人事件と日建土木事件の二件のみ。破棄差し戻しを受けて無期懲役に減刑された事件はあるが、高裁が被告の防御権を侵害した場合など、法令違反が問題となった場合である。それも、数は多くない。
 松原の判決について、楽観的な考えを抱ければと思う。しかし、現実的に考えれば、それはおよそ不可能だ。
 
 私の推測が外れることを祈りつつ、判決を待つ。

 7月15日、松原智浩の最高裁弁論を傍聴した。
 いずれ詳細な傍聴記にまとめるつもりだが、簡単に言えば、松原の弁論は平均的な死刑事件の弁論同様に進み、終った。
 裁判員裁判では、初の死刑事件審理だからか、最高裁は相当にピリピリしていたようだ。最高裁の公判では、職員のアナウンスや傍聴の際の注意など、煩雑な儀式がある。この日は、その儀式がさらに複雑になっていた。しかし、最高裁の緊張ぶりとは裏腹に、あっけない終わりだった。
 最高裁では被告人が出廷しないので、法廷内に松原の姿はない。しかし、遺族も一人として法廷に姿を見せていなかった。
 弁論は13時30分に開始され、14時10分に滞りなく終了。時間は40分程度であり、最高裁の死刑事件弁論としては、標準的な長さである。判決期日は追って指定することとなり、閉廷した。
 弁護人は、松原を高裁から担当している二人の女性弁護士だ。検察官は、役人然とした風貌の、堅物そうな中年男だった。
 弁護人の弁論は、熱意がこもっており、時折涙声になっていた。二人が、絶対に松原を死刑にしたくないと思っており、誠実に弁護を行っていることは疑いえない。しかし、内容は控訴審の主張とあまり変わらないものだった。最高裁は法律審であり、新たな証拠が出てこない限り、新たな主張を行うのが難しいのだろう。
 検察官は口調に熱意がなく、だらだらとした話しぶりで、手短に弁論を終えた。控訴審までの判決文などを切り貼りしたような、空疎な内容だった。朗読にあたって、金良亮の名前を間違えてさえいた。
 ただ、一点だけ看過できない発言があった。金父子の生活を『平穏に暮らしていた』と評したことである。
 金父子はヤミ金を経営して多くの人々を苦しめ、自殺に追い込み、さらには宮城を殺害した。被告たちを監禁同様の状態におきながら、経済的に搾取し、暴力と恫喝で酷使していた。
 検察官にしてみれば、弁論の際の慣用句を惰性で使っただけであり、悪意などなかったのかもしれない。
 それでも、金父子の生活が、問題のないものであったと聞こえることに変わりない。被告たちを含めた金父子の被害者に対し、あまりに冷酷な言葉である。そして、人の生死に直結する裁判での、そのような鈍感さが理解できない。

 松原の判決はおそらく、9月ぐらいになるのだろう。言い渡しは、1分に満たない時間で終わると思われる。
 その1分で、どのような言葉が裁判官の口から出てくるのか・・・。
 

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