伊藤和史獄中通信・「扉をひらくために」

長野県で起こった一家三人殺害事件の真実。 そして 伊藤和史が閉じ込められた 「強制収容所」の恐怖。

被告たちの被害・精神状態

 2014年2月20日、東京高裁は伊藤和史の控訴を棄却し、一審の死刑判決を維持した。裁判長は村瀬均、裁判官は秋山敬と池田知史。伊藤の控訴棄却に先立って、別の二つの死刑判決を破棄し、無期懲役に減刑している。この減刑された二つの死刑判決は、裁判員裁判で下されたものだった。なお同裁判官たちは、伊藤への判決の一週間後、池田薫の死刑判決も破棄し、無期懲役に減刑した。
 東京高裁は事件の背景をどのように認定したのか。関係者から手に入れた判決要旨より、認定を抜き出す。なお、原文は被告や「被害者」らの本名がそのまま記載してある。特に変更を加えず、原文のまま引用する。死体遺棄の共犯者であるHについては、仮名である。

 『被告人は、平成17年3月ころから妻(注・入籍日を記載につき、略)及びその子(注・入籍日を記載につき、略)と同居していたが、同年7月ころ知り合った暴力団組員の宮城から、殴る蹴るなどされて自宅の鍵を取り上げられたうえ、住所や連絡先等も把握され、その後、宮城からビールジョッキ等で頭を殴られたり包丁で足を刺されるなど激しい暴行も受ける中で、命じられるままに養子縁組をして姓を変えては消費者金融から金を借りて宮城に渡すことなどを繰り返し、さらに、知人から借りた金や仕事で得た金を宮城に渡したりもしていた。その間、被告人の妻は、宮城との関係を心配したり怪我の看病をするなどして被告人を支えていた。被告人は平成18年1月ころ暴力団組員で宮城の舎弟であった良亮に会い、さらに文夫とも知り合って良亮の誕生会等に参加するなど関わりを持つようになり、平成19年3月ころ宮城が逮捕された後も、文夫親子の誕生会やオリエンタルグループの忘年会、旅行会等に参加し、高利貸業の手伝い等もしていた。こうした中で、被告人は、平成20年7月に良亮が刑務所から出所した宮城を拳銃で射殺した際に現場に居合わせ、原判示第5のとおり良亮やHとともに宮城の死体を遺棄した。その後、被告人は、文夫に命じられてHとともにオリエンタルグループの従業員として長野市内で働き始めたが、平成20年10月ころから大阪に住む妻らと離れて長野市内にあるグループの会社事務所に住み込み、さらに、平成21年5月ころからは、監視カメラの設置された文夫方において、鍵の掛からない部屋に住み込んで、文夫親子や有紀子らと同居しながら働かされるようになった。被告人は、平日は朝から夜まで無給でオリエンタルグループの仕事をさせられた上、収入を得るため深夜に別の仕事もしており、一日三,四時間程度しか睡眠できず、休日も文夫親子に命じられて付き人や運転手などをしたりグループの食事会等に参加するなどしており、自由に外出もできず、さらに、誕生会や忘年会等にも参加させられるなど、生活を拘束されていた。その間、平成21年2月にHが文夫親子から逃げたこともあって、被告人に対する文夫親子の拘束は厳しいものがあり、頭を叩かれるなど暴力的な扱いも頻繁に受けていた。被告人は、たびたび文夫親子に対し、大阪に住む家族に会いたい旨訴えたが、良亮から、「宮城のようになってもいいのか。」などと脅され、帰宅できたのは、盆や正月、子の小学校の卒業式や中学校の入学式、自宅が火事になった後の確認等の機会に限られていた。被告人は、このような文夫方での生活により心身ともに疲弊し、耐え難い気持ちになり、文夫親子から逃げて家族の下に帰りたいなどと考えていたが、文夫親子が高利貸し業の債務者が逃げた際に住民票の除票を用いて新しい住所を突き止めていたことを知っており、文夫親子に大阪の自宅の合鍵を保管され住所等を把握されていたこともあって、逃げても除票により居場所を突き止められるため逃げきれず、捕まれば自分や家族が危害を加えられ宮城のように殺されるかもしれない、他方で大切な家族を残して自分だけ逃げたり自殺することもできないなどと考えていた。また、文夫親子と警察官が懇意であり、警察に相談しても対応してくれないなどとも考えていた』

 裁判を傍聴し、伊藤の訴えを聞いてきた身からすれば、金父子の犯罪に言及するトーンはどこか及び腰だ。宮城の犯罪行為と比較し、金父子の犯罪行為は、どこかマイルドに書かれているようにも思える。
 例えばこの認定部分には、宮城に監禁されている時に、金良亮からも養子縁組や借金を強要されたことを、書いていない。真島の家での監禁時に金属を投げつけられ、痣のできる怪我を負ったこと、妻子が金父子の元で働かされそうになっていたことも、書かれていない。
 金父子の闇金については、手伝いをしていたのではなく、債務者の家を見に行くことを強要されたのである。「手伝いをしていた」という、伊藤と金父子に合意があったかのような書き方をすることで、金父子の恐ろしさを和らげようとしているようにも読めてしまう。
 このように、判決自体にはもちろん、認定の詳細さについても、不満は多い。それでも、一審判決と比較すれば良心的であり、事実を真剣に検討している。

 伊藤は控訴審で、犯罪被害や殺害される恐怖から、合法的な手段をとる期待可能性が減少していたと主張した。村瀬裁判長としては、伊藤の主張を否定するためには、被害者たちの犯罪を認めては都合が悪い。
 しかし、そのような立場の裁判官であっても、伊藤の犯罪被害を、ここまで認定している。期待可能性について検討している段落では、『被告の置かれた状況が苛酷で常軌を逸したものであった』と、はっきり記載してさえいる。「弁護人が指摘する事情には,一面の真理があることは否めない」などという気の抜けた一文で認定を回避することは、いくらなんでも良心が許さなかったのだろうか。
 村瀬裁判長たちは、非情であっても専門家としてのプライドは持っていたということか。それとも、原審の高木順子裁判長と裁判員たちが、あまりにも怠慢であり、無責任であったというべきか。
 ともかく、以上に検討したように、伊藤がこうむった犯罪被害も高裁の判決文により事実と認定されている。

控訴審においては弁護人の請求により精神鑑定が行われ、鑑定書と鑑定人の証人尋問が採用された。小林正信氏が鑑定人となった。2013年7月16日、東京高裁で行われた証人尋問をもとに、記述する。
 
結論から言えば、伊藤和史は犯行時、心神喪失や心神耗弱ではないものの、心理的視野狭窄の状態にあった。

この症状は、統合失調症と違い、心そのものが変異するわけではない。しかし、いくつかの行動選択肢があっても、一つしか選ぶことができなくなる。意識が一点に収束してしまい、他の行動をとることができない状態である。
この一つの選択肢以外は、判断において切りおとされているため、他の選択をすることはできない。しかし、この集中している一点についてだけは、ある程度は合理的な行動をとることができた。いわば、コップの中を覗いている状態であり、そのコップの外の事柄については考えが及ばず、合理的な行動をとることができない。

伊藤は、殺害前に被害者の食事に睡眠薬を入れ、殺害を容易にしている。また、同じく真島の家にとらわれていた共犯者に、事件について相談している。しかし、これらの行動は、コップ内の出来事であったから、思いつくことができた。
妻子に犯罪被害について相談をすれば、妻子に災いを招きかねない。警察は、ヤミ金の債務者が相談しても金父子の捜査をせず、つながっている様子であり、あてにならない。このため、家族にも警察にも相談することができなかった。同時に、真島の家以外の人間に相談することは、視野狭窄によって形作られたコップの、外の出来事だった。

 心理的視野狭窄となる理由は、相手からの暴力、疲弊性抑うつ、マインドコントロール、集団ヒステリーである。このうち一つでも欠けていれば、視野狭窄にはならなかった。
 伊藤は宮城と良亮に監禁され、経済的に搾取されるだけでなく、グラスで頭を割られる、ガラス片で腹を刺されるなどの犯罪被害を受け、腸が出るほどの重傷を負うこともあった。さらに、金良亮に殺人を見せつけられ、それはトラウマとなった。その後は、一家から痣が残るほどの暴力を振るわれ、殺害をちらつかされた。体重が10数キロ落ちるほどのストレス。苦しみを顔に出すなどの感情表現さえも、自由にできなかった。悲しみを表に出せば、金父子は不機嫌になり、暴力を振るわれる危険があったからだ。このように、伊藤は異常なまでの暴力を、長期間にわたり受けている。この暴力と心理的拘束は、マインドコントロール状態を生んだ。
さらに、理不尽な暴力と行動を支配する心理的束縛により、心理的な疲労が蓄積され、疲弊性抑うつにつながった。伊藤の疲労は、山で遭難したと同様の状況であり、もうろう状態だった。
 最後の仕上げとして、自らの言葉により殺害の決意を固めていく共犯者たちを見て、集団的ヒステリーが発生したとのことである。

 当初は、伊藤もいくつかの選択肢を検討した。その最大のものは、自殺である。伊藤は、2009年に自殺を図ったが、妻の声を電話で聞いて、決心が萎えたことがあった。また、自分が自殺すれば、妻子が金父子に捕らわれてしまうのは、目に見えていた。自分を包み込むように愛してくれた妻子を、苦しませたくはなかった。そのため、ある時点までは常軌を逸した暴力に耐え続けていた。
警察に相談しようとも考えたが、金父子と警察との親しげなやり取りに、その気も萎えてしまった。また、幼少時に虐待にさらされたこと、良亮による犯罪の主犯格であった宮城から、異常な暴力を受けたことにより、「暴力に逆らっても解決することはできない」という、学習性無気力と呼ばれる心理状態にあった。これらの外的要因が、殺害以外の選択肢をつぶした面もある。
 事件の前年、「妻子をバーのホステスとして、強制的に働かせてやる」と金父子から脅されたあたりから、漠然と計画を思浮かべていたが、事件の一週間ほど前から、だんだんと事件だけの一点に集中していった。
この収束していった理由は、殺害について相談した際、他の共犯者が殺害に否定的ではなかったからだとのことである。前年から計画を考えてはいたものの、まずありえない、という思いがあった。しかし、共犯者が自分と同じ境遇であり、殺害に否定的ではないのを見て、意識が殺害という一点に収束していった。

 伊藤和史の事件当時の精神状態について、公判傍聴記をもとに書き出してみる。以下は、2011年12月14日に行われた、長野地裁での証人尋問をもとに記述したものである。

 長野地裁においては弁護人の請求により心理鑑定が行われ、鑑定書と鑑定人の証人尋問が採用された。鑑定人は、TVに出演し、『かれらはなぜ犯罪を犯したか』などの著書がある、森武夫氏である。
 森証人は、東京大学の心理学部を卒業している。長年にわたって家裁調査官を務め、最高裁事務官に就任したこともあった。大学では25年間務めた。最後には、名誉教授となっている。犯罪心理学、家族心理学を専門として、教鞭をとっていた。情状鑑定の経験は、30件以上ある。裁判所、ないしは弁護人から依頼されたものとのことである。

 鑑定結果の概要は、以下のようなものであった。
 良亮が宮城を射殺した光景は、伊藤のトラウマとなっている。伊藤の現状は、不安による適応障害の項目に合致している。この適応障害は、主にストレスにより発生し、ストレスを与えたものが存在しなくなったからと言って、容易に回復はしないとのことだ。また、この適応障害は、PTSDの原因にもなりうる。森氏は、伊藤がPTSDに罹患している可能性もあると証言している。

 伊藤は、真島の家では、終始暴力を振るわれ、威圧されていた。暴力を受ける程度は、一番ひどかった。賃金はもらえずに、3時間の睡眠しか許されないような過剰労働をさせられていた。つらい、苦しいといった感情表現も許されなかった。楽しそうに笑っていることを強制された。行動の自由の制限もひどく、伊藤が大阪の自宅に帰ろうとしたときにも、良亮が自宅までついてきて、その動向を監視していた。

 良亮は頻繁に宮城殺害に言及し、「お前もああなってもええんか」と、伊藤を脅迫していた。そのため、伊藤には恐怖に加え、対人不信が生じた。それは、弁護士に対してさえも同様だった。
今村弁護士は、地裁段階から上告中の現在まで通して、伊藤を担当している。伊藤が受けた犯罪被害の凄惨さに同情したこともあるだろうが、今村弁護士の誠実さの表れでもあるだろう。伊藤はその今村弁護士に対しても、最初に面会した際には、非常に警戒していた。自分を守ってくれる人間だと説明されても、なかなか信用しなかった。不信感の強さをうかがわせる。
 真島の家では、終始見張られている感じがしており、トイレしか安心できる場所がなかった。精神不安定から入眠幻覚が生じ、他の人には見えないものが見え、聞こえない声が聞こえた。居ないはずの人の声が聞こえ、動物の幻視があった。
自らを否定され、「それだから出世できない」、「生きている価値がない」などと侮辱され続けることで、自信喪失にもつながった。モノの長さについても、他人に計ってもらわなければ、自分の測定が正しいか自信が持てないほどだった。

 伊藤は金父子に強い恐怖感を抱き、抵抗しても無駄ではないか、という心理状態にあった。そのため、一人ではとても踏み切れなかった。しかし、共犯者の話を聞き、同じ気持ちの人がいると知り、事件へと気持ちがシフトしていった。動機については、理不尽な犯罪被害を加える金父子への憎しみがあったが、それ以上に、不安や恐怖の対象を消したい、という思いが強かったと分析している。愛する家族のもとに帰りたい、自由になりたい、そのような思いが強かった。

 伊藤は追い詰められた心理状態であったため、犯行計画について、細かい点まで検討ができる状態ではなかった。失敗したらどうしよう、と考える余裕さえなく、ハルシオンで眠らせた後に会長や専務が起きてきたらどうする、という予想すら行えなかった。

 精神医学には、DSMマニュアルという、診断基準をまとめた手引きがある。このDSMの中にはGIFという精神機能の評価尺度がある。尺度は10段階に分かれており、数値が大きくなるごとに、精神機能が低下するとされる。1が健康状態、10が責任無能力の状態である。8か9で限定責任能力となり、伊藤の場合は7に該当した。限定責任能力に非常に近い状態であった。

 本件犯行は必ずしも冷血非情と言えるものではなく、一般人であっても同じ境遇に立たされれば、かなりの割合で殺人を行うのではないか。
 それが、森氏の真島事件についての結論であった。

 続いて、松原智浩の東京高裁判決で認定された、犯行動機について引用する。松原の判決文は、「判例秘書」掲載のものである。
 松原智浩の高裁審理を担当したのは、第十二刑事部。裁判長は、井上弘通。裁判官は、山田敏彦と佐々木直人である。

<松原智浩・2012年3月22日東京高裁判決>
 本件犯行に至る経緯や動機についてみてみると,被告人(注・松原智浩)は,交際していた女性との結婚をF(注・金)会長らに許してもらえないであろうし,長年支配されてきた同人らに対する積年の恨みを晴らしたいとの思いもあって,本件に及んだとしている。確かに,被告人が,F親子の支配下に入り,高利貸しを本体としたEの水道設備部門等の従業員として,長年F会長宅に住み込んで働いてきたものの,かねてよりF親子から,給料の不当な天引きをされたり,ときには暴力的な扱いを受けたりしながら,文句も言えずに我慢を強いられていた事情があり,また,女性との結婚のためF会長のもとを離れたいが,たやすく許されるはずがなく,多額の現金を要求されたり,暴行を受けたりし,両親らに累が及ぶかもしれないなどと思い悩んでいたことなどが本件犯行につながったと認めることができる。
 そして,当審で実施した証人A(注・伊藤和史)の尋問やそれも踏まえた被告人の当審公判供述等も併せて更に検討すると,F会長は,非常に短気で些細なことでも怒り出し,周囲から恐れられていたこと(明確な裏付けはないが,少なくとも被告人は,本件当時もF会長が暴力団に所属し,幹部の肩書きを持っていると思っていた。),D(注・金良亮)専務も元暴力団員で性格は粗暴であり,被告人自身鉄パイプで殴られるなどの暴力を受けたことがあったこと,F会長らが営む高利貸しは,いわゆる闇金融といわれるもので,その取立方法は厳しく,借金を返さない債務者に対しては,暴力を加えてでも取立てをし,平成19年には,D(注・金良亮)専務の取立てに同行した際,被告人もD専務に加勢して債務者に対する暴行に及んで,D専務とともに恐喝及び傷害の罪で有罪判決(執行猶予付き懲役刑)を受けていたこと,借金を返さないまま逃げ出した債務者の居場所調査は,長野県内だけでなく,大阪や神奈川にまで及ぶこともあり,被告人は,日本中のどこへ逃げてもF会長らのもとからは逃げられない,仮に自分だけが逃げ切れても長野市内にいる家族に危害が及ぶのではないかと考え,逃げるに逃げられない心境にあったことなどの事情が認められる。同様にAもF親子の支配下にあって,Eの従業員としてF会長宅に住み込みで働かされていたが,被告人以上に束縛が厳しく,休日も自由な外出ができないほどであったこと,さらに,Aは,明確な裏付けまではないものの,以前にD専務が暴力団の兄貴分の男(注・宮城法浩)を射殺した現場に居合わせて,その直後の状況を目撃し,D専務に命じられて死体を隠す手伝いをさせられたことがあり,その口封じのためもあって動静を監視されており,D専務のもとから逃げ出したりすれば,いつか自分も殺されるのではないかと考えていたことなどの事情が認められる。
 上記のようなF親子の行状を間近で見たり,自ら理不尽な扱いを受けたりしてきたことにより,被告人及びAらが思い悩まされ,耐え難い心境に陥るとともに,積年の恨みを晴らしたいという思いを持ち,それが本件犯行につながった面があることは否定できないと認められ,このような被害者側の事情や経緯は,被告人にとって酌むべき事情として相応に考慮されてしかるべきである。

 判決内容は不公正であり、理由を示さない判断ではないかと思える部分も存在した。しかし、長野地裁判決に比べれば、まだまともに認定を行っている。
 判決文は、被告の感情をそぎ落として伝える。情状認定については、起こった出来事の羅列が主となるため、被告人の心情については、「被害者の冥福を祈っている」などの定型的な要約に変換されてしまう。事件時に何を感じたか、どれだけ苦しい立場に置かれていたか、反省や後悔の念などは、判決文を読んでいても伝わりにくい。まして、表情や態度などは見えてはこない。加えて、被告が事件時に置かれていた状況について、が逐一書かれているとは限らない。そのため、事件に至るまでの心境について、ニュアンスが伝わりにくくなる面もある。
 その点は、松原の高裁判決も同様である。それでも、松原、そして伊藤の苦痛や恐怖、置かれていた状況の過酷さは、伝わってくるのではないか。

 被告たちが「被害者」から受けた被害について、裁判所はどのように認定したか?伊藤と松原の地裁・高裁判決文を引用し、検討してみる。

 この項では、地裁判決を引用・検討する。判決文は時系列順に並べられている。この地裁判決は、「判例秘書」掲載の判決文を引用したものである。

 二人の地裁審理における裁判官は、裁判長は高木順子。裁判官は、松原の審理の際は鎌倉正和と北澤眞穂子。伊藤の審理の際は、菅原暁と北澤眞穂子である。


<松原智浩・2011325日長野地裁判決>

関係各証拠によれば,被告人は,かねてB(注・金文夫)会長及びC(注・金良亮)専務の親子から,給料の不当な天引きをされ,時には暴力的な扱いを受けることもあり,文句も言えず我慢を強いられていたことなどの事情が認められる。また,被告人が,女性との結婚のためB会長の下を離れたいが,たやすく許されるはずがなく,多額の現金を要求されたり,暴行を受けたり,あるいは,両親らに追い込みをかけられるかもしれないなどと思い悩んでいて,こうした思いが本件犯行につながったという点は弁護人指摘のとおりである。

 後述するが、真島事件支援団体から聞いた話では、地裁段階での松原への弁護態勢は不備が多かったとのことだ。犯罪被害についての主張も、不十分なものであった。例えば、宮城殺害事件を法廷に持ち出すことについて、弁護士はあっさりと諦めてしまったらしい。
 また、真島事件は裁判員裁判で審理された。これも後述するが、裁判員裁判は、簡素な内容を旨としている。しかし、そのような不十分な裁判、簡素な認定文であっても、この程度の事情は認定されているのである。

 次は、伊藤和史への長野地裁判決の、情状認定部分である。松原一審判決と比較しても、簡潔さ、もっと率直に言えば、粗雑さが際立っている。


<伊藤和史・20111227日長野地裁判決>

確かに,関係証拠によっても,弁護人が指摘する事情には,一面の真理があることは否めないが


 この一文が、情状認定のすべてである。
 伊藤の長野地裁判決で唯一「裁判所の認定」として書き出された、「弁護人の指摘する事情」とは、『弁護人は,仮に期待可能性が否定されないにしても,A会長一家殺害は,先行する遺体遺棄事件の被害者であるG(注・宮城)に始まり,A(注・金)会長親子による奴隷的な拘束,支配を受けていた被告人が,妻子の元に帰りたい一心で,共に虐げられていた共犯者らと連帯してA会長親子に反撃したものであって,A会長親子にも大きな落ち度があり,被告人の犯行動機には同情すべき事情がある,利欲目的による典型的な強盗殺人とはいえない点に本件の本質があり,極刑を回避すべきである』という、伊藤一審判決に要約された弁護人の主張のことである。

 松原一審判決の認定も、ずいぶんと簡潔な内容であった。しかし伊藤一審判決は、「事件の背景を認定する」、「被告人に最低限の認定内容だけでも示す」「自らの認定をもとに事件の真実を明らかにし、量刑を検討する」という、人を裁く者として最低限の責任さえも放棄している。長野地裁の法廷で、伊藤が被害者たちから負わされた傷は、スクリーンに映し出されている。金良亮の前科、金父子の闇金の記録も、伊藤の地裁公判で出てきている。金良亮は宮城殺害で書類送検されており、その件も法廷に持ち出された。被害者たちの犯罪は、法廷にその姿を露わにしていたのである。

このずさんな判決についても、のちに詳細に検討したい。

 ただ、この短文から、伊藤の主張する被害者の犯罪を否定できなかったことは、理解されるだろう。
 松原の場合と違い、伊藤の弁護士は、一審段階から積極的に金一家の犯罪に言及していた。
 そのため、六人の「市民」と裁判官たちは、被害者たちによる犯罪を否定できず、死刑選択の理由付けに苦心した。そして最後には、被害者たちの犯罪を認定すること自体から逃避したのである。
 これは、事件の真実解明、真摯な量刑検討を放棄することでもあった。

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