伊藤和史獄中通信・「扉をひらくために」

長野県で起こった一家三人殺害事件の真実。 そして 伊藤和史が閉じ込められた 「強制収容所」の恐怖。

報道について

IMG


 伊藤和史の死刑が確定した際の、信濃毎日新聞の記事である。

 率直に言えば、「これだけ?」と言いたくなるような内容であった。
 裁判員裁判での死刑確定という大事件にしては、報道量があまりにも乏しすぎるのだ。
 第一に、判決内容が不明瞭である。
 最高裁判決は、はっきりと、『かねて会長親子から頻繁に暴力的な扱いを受け、専務からは逃げらたら命を奪うかのような脅しを繰り返し受けながら、長時間の労働を強いられるなどした。そのため、被告人は、心身共に疲弊し、会長親子の束縛から解放されたいという思いを募らせ』と金父子の犯罪行為が、事件原因であることを認定していた。しかし、この記事は、最高裁の認定をあまりにも曖昧にして濁している。
 第二に、法廷の様子がまったく書かれていない。
 裁判長は、異例の主文後回しを行ったのだが、記事は全くそれに触れていない。
 また、最高裁とはいえ、被害者遺族が法廷にいないことは珍しい。K・Kをはじめとした遺族は誰一人として法廷に姿を見せなかった。それも異例のことであり、記事として書いても良さそうなものだ。
 ついでに言えば、私が抗議の声を上げたことも書かれていない。抗議の声が上がることなど、そうない筈なので、それも書けばいいのだ。
 そして、何人かの記者が、今村弁護士に取材を行っていたのだが、その結果も全く書かれていないようだ。

 この二点については、ある程度、理由が推測できる。伊藤の犯罪被害に言及した部分、法廷での特異な光景など、いずれも、「被害者」による犯罪行為にかかわるものである。そのため、信濃毎日も及び腰なのではないか。この20年ほど、「被害者」「遺族」は、正当性を疑ってはならない「聖域」と化している。
 それでも、第三の点は、非常に特異な記事であった。

 第三。この記事には、伊藤の事件を担当した裁判員がまったく登場していない。
 普通、死刑が確定すれば、裁判員にコメントを取りに行く。共犯者の松原が死刑確定した際も、裁判員のコメントを取りに行っていた。他の死刑事件の確定でも、同様である。にもかかわらず、伊藤の場合に限って、伊藤の裁判員はまったく登場しない。代わりに、松原を担当した裁判員が、コメントを出して「裁判員の苦悩」なるものを訴えている。
 おそらく、伊藤を担当した裁判員は、全員が取材を拒否したのではないだろうか。だからこそ、松原の裁判員のコメントを取り「どうか想像してください」と、読者に投げるしかなかったのだ。
 また、松原の裁判員であるがゆえに、「苦悩」とやらしか聞き出すことがなく、それゆえに周辺取材の結果も、乏しいものとならざるを得なかったのであろう。
 この「裁判員の苦悩」なるものを訴える内容も、ありきたりな、見慣れた内容だ。「被害者」「遺族」が聖域となっているのと同じく、裁判員も聖域と化している。それを、改めて確認できる内容であった。

 しかし、この「聖域」に漫然と拝跪しているべきなのだろうか?
 裁判員と裁判官の差は、その専門的知識のみである。誤れる判決、不当な判決については、裁判官のそれと同様、批判していくべきだ。そのためには、まずはお客様扱いをやめるべきではないか。

 事件の特異性を考慮せず、「死刑確定」を扱う記事とだけみても、内容の乏しい記事だった。それでも、一つだけ興味深い内容があった。
 最高裁は、大人しい「お客様」である裁判員に配慮し、カウンセリング窓口を設けている。長野地裁でもそれは同様なのだが、真島事件に関与した裁判員のうち、その窓口を利用したものは、誰もいないとのことだ。
 考えてみれば、裁判官が死刑判決に悩んでカウンセリングを受けた、という話は聞かない。裁判員は、裁判官ほどには裁くことに慣れていないだろうが、やはり同じではないのか。

 この記事は、松原智浩の死刑確定時の、信濃毎日新聞である。2014年9月3日付朝刊のものだ。控訴審時の松原は、この写真と違い、がっしりして色が黒かった。少し若いころの写真なのかもしれない。

2014年9月3日付


 『被害者の暴力などに我慢を強いられ、「動機、経緯に酌むべき事情として相応に考慮すべき点もある」としながらも「刑事責任は極めて重大」とした』 
 上に引用した記事のように、松原が被害を受けていたことは、最高裁判決でも一応は触れられているようだ。これは珍しいことである。
 最高裁判決は、高裁で複数の動機が認定された場合、被告に不利なものだけを記載する傾向がある。たとえば、「被害者たちのリンチから逃れ、自らの暴行を警察に通報されないために殺害に及んだ」という動機が、高裁判決で認定された事件があった。その事件の場合、最高裁では「自らの暴行を警察に通報されないために殺害に及んだ」という動機だけが、判決文に記載された。このような記載となるのは、短い三行半の中で、いかに自らの判断を正当化するかに、汲々としているからだろうか。
 松原の高裁判決では、「被害者」たちの犯罪から逃れたいという動機と共に、金銭を奪う意志も認定されてしまった。このような場合、最高裁の筆法では「金銭を奪うなどの目的のを果たすために、殺害を行った」と判決文に書かれてもおかしくない。そのような最高裁であっても、真島事件の「被害者」たちの犯罪は無視できなかったということだろうか。

 なお、この記事に出ている裁判員は、これまでも判決の節目で、取材に応じている。今回の記事を含めて読んだ印象では、「自らの心情の安定」に、最大の関心があるように思えた。真島事件の裁判員の言動、一連の記事への違和感などは、後程、記事を書くことになると思う。今回は、以下の点だけを述べて、記事を終わらせたい。

 以下の感想は、あくまでも私の愚考であり、伊藤や松原の考えではない。2012年3月末の記事によれば、伊藤は裁判員に対して『「自分が犯した罪でショックを与え、(裁判に)巻き込んでしまった」』『「これ以上(裁判による負担で)迷惑を掛けたくなかった」』という思いを抱いているようだ。ならば、私の考えは、被告たちの心情に反するものかもしれない。それでもあえて書かせてもらう。裁判員の言葉、裁判員への世論、あまりにもアンフェアに思えるものが多いからだ。

 この記事では、またも「裁判員の心のケア」「国民の負担軽減」について語られている。真島事件で、否、裁判員裁判で死刑判決が下されるたびに、「裁判員の心のケア」「裁判員の負担軽減」の問題が語られてきた。しかし、これは問題提起としては異様に思える。
 もちろん、裁判で精神的な傷を負ってしまった場合、国が医療面でケアする必要はあるだろう。しかし、この記事で書かれている裁判員の状況は、「殺人現場写真などを見せられ、トラウマ・PTSD等に罹患した」というものではない。「裁判の判断を重荷に感じている」というものだ。しかし、その感情は「ケア」により取り除くべきものなのだろうか。
 裁判への関与は、人の人生を左右し、時には生死を決定するということだ。その判決の重みを受け止めるのは、判決を下した者の責任である。たとえば、「裁判官が自らの下した判決の重みに苦しんでいる。精神的負担の軽減を」という主張には、誰でも違和感を覚えるのではないか。裁判における徹底した審理は、自分の判断の重みを認識し、負の結果であっても受け止める心構えがなければ、不可能である。精神的な傷の治療は必要であっても、「人を裁くことの重荷」「裁いた結果への責任と、責任の自覚」は、断じて取り去ってはならない。

 松原智浩の高裁判決が下された少し後、2012年3月末の信濃毎日新聞に、下記の記事が掲載された。真島事件の報道の一例として、アップしておく。
 なお、この伊藤の写真は、伊藤の現在とは全く異なっている。法廷での伊藤は、同一人物とは思えないほどやせ細り、今にも倒れるのではないかと思えた。

信濃毎日新聞・2012年3月末記事


 何とも奥歯に物が挟まったような記述だが、それでも『束縛から逃れるのが動機と主張』と書くなど「被害者の犯罪」に言及している。記者が伊藤に取材をし、伊藤のコメントも運用している。割いた紙面も、比較的大きい。信濃毎日新聞なりに問題意識を持ち、努力したのかもしれない。伊藤の高裁公判時にも、信濃毎日新聞の記者らしき人々が、今村弁護士を取材している光景がたびたび見かけられた。真島事件の被告たちが、長野地裁唯一の死刑判決を受けた者たちである、ということもあるだろう。しかし、真島事件の結末について、新聞社としても気にしている面があったのかもしれない。
 それらを認めたうえで、報道の在り方に疑問を抱く。殺人、出資法違反、傷害といった、明らかな犯罪行為を非難できない報道とは、いったい何なのだろう。
 警察も検察も、宮城殺害、金父子のヤミ金を認めている。松原が受けた被害は、地裁高裁の判決文にはっきりと認められている。伊藤の被害は、伊藤の地裁判決は卑劣にも認定から逃避したが、松原の高裁判決はこれをはっきりと認めた。伊藤の公判における証言や心理鑑定、養子縁組記録、伊藤の傷痕から、事実と認められるほど証拠も集まっている。のちの高裁判決では、伊藤の被害についてもはっきりと認定された。
 この報道の時点でも、「被害者の犯罪」は、事実と認定可能であったのだ。「被害者」ということになれば、どれほどの悪行を行おうとも、批判してはならないということか。

 また、「裁判員裁判の期日の在り方」という問題に仮託して、伊藤の判決に疑問を呈している。しかしながら、判決に婉曲に疑問を投げかけながらも、「制度の在り方」に疑問を呈するのみだ。「裁判員の判断」について疑問を呈することはない。この傾向は、真島事件の報道の節目で、たびたび見られた。「被害者」を批判することへの遠慮とともに、「裁判員」を批判することへの遠慮もあるのだろうか。
 しかし、批判精神は、報道の生命と言ってもいいのではないか。特定の立場の人間であれば批判しない、というあり方は、「報道の自由」「良心の自由」を、自ら投げ捨てる行為とは言えないか。

↑このページのトップヘ