伊藤和史獄中通信・「扉をひらくために」

長野県で起こった一家三人殺害事件の真実。 そして 伊藤和史が閉じ込められた 「強制収容所」の恐怖。

裁判について

 2017年8月10日、松原智浩の即時抗告が、東京高裁で棄却された。
 状況は非常に絶望的だが、何とか頑張ってもらいたい。私自身は松原と交流できていないので、応援することしかできないのが現状だ。
 最高裁では、少しでも慎重に審理してもらいたい。また、再審請求の趣旨から外れることは百も承知だが、松原の被害者からの犯罪被害という、事件の本質にも目を向け、少しでも配慮してもらえればと思う。

 7月13日、西川正勝、住田紘一の死刑が執行された。西川が再審請求中の死刑執行だったこともあり、今回の死刑執行は比較的報道されている印象だ。
 私は、今回の死刑執行について非常に驚いた。まさか、内閣改造による辞任(辞任せざるをえまい)ぎりぎりに執行をするとは思わなかったのだ。世間ではその強権ぶりで非難を浴び、辞任をあと二十日ほど後に控えている。「熟慮を重ねた」という決まり文句を垂れ流すが、本当にこのタイミングで、熟慮して執行する余裕があったのだろうか。
 今回の執行については書くべきことが多いので、いくつかに分割する。

 まずは西川正勝の死刑執行について。一件の殺人と三件の強盗殺人(本当の金目当ての殺人)で死刑が確定した。公判時から、強盗殺人三件については無罪を主張し、再審請求をしていたようである。
 彼は、再審請求中に執行された。再審請求中の死刑執行は、1999年に死刑執行された、長崎県老女殺害事件の小野照男以来である。そのほかには、1958年に、福岡で再審請求中の死刑執行があった。その死刑囚は無罪を主張して、再審請求を頻繁に行っており、同時期に死刑が確定していた免田栄さんは冤罪の可能性を指摘している。なお、西川には殺人前科があったが、小野にも殺人前科があった。それも、執行への心理的障壁を消したのかもしれない。もちろん、前科があったからと言って有罪ということにはならず、本来であれば有罪無罪とは分けて考えるべきものである。
 西川の訴えの通り無罪であれば不当な執行と言えそうだが、本当にすべての事件で有罪であったのならば、死刑執行は仕方なかったかもしれない。
 西川が有罪であるならば、再審請求中に執行されたこと、金田勝年により執行されたことを除いて、特に思うところはない。

 第一に、再審請求中の死刑執行について。
 これには、三つの問題があると考える。
 一つ目の問題。再審請求中の死刑執行が、冤罪者の救済を不可能にする行為であることは、言うまでもない。
 免田事件、島田事件、松山事件で警察・司法の被害にあった人々、冤罪者たちは、何十年間も再審請求を行い、漸く無罪が認められた。再審請求中に執行がされていれば、当然ながら冤罪は闇に葬られただろう。「再審請求中の死刑執行」を是認することは、そのような事態の是認にも繋がりかねない。仮に、西川の再審請求が根拠ないものであれば、またもや速やかに棄却されたであろう。再審請求の棄却を待って死刑執行しても、特に問題ないのではないか。

 そして、二つ目の問題。これは、あまりピンとこないことかもしれない。再審請求中の死刑執行は、検察庁による司法権の侵害ではないか。
 再審請求中の死刑執行は、法務省が再審請求を強制的に打ち切ることに他ならない。つまり、実質的に法務省という行政が司法に介入し、死刑囚の有罪無罪を判断しているに等しい。もちろん、再審請求に判断を示すのは、裁判所という司法の役割である。
 その点は誰も言及しないが、司法権の根幹を揺るがしかねない問題ではないのか。
 検察官がどう絡んでくるのか?と考える方もいると思うので、先を急ごう。
 まず、法務省における法務大臣の役割は、金のかかる看板に堕している。そして、法務行政を実質的に支配しているのは、検察官である。
 死刑執行命令書に公印を押しているのは、事務方である。法務大臣は、「死刑事件審査結果」という書類に判を押すだけだ。このように、命令書に判を押さないことで、責任者である法務大臣が、なるべく責任を軽減されるシステムになっている。また、死刑執行の上申を行うのは、法務官僚と検察庁である。
 そして、「法務官僚」とはいうが、その実態は検察官である。
 例えば、現在の法務省事務次官である黒川弘務は、元検察官である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B7%9D%E5%BC%98%E5%8B%99 
 1983年に検察官に任官し、東京、新潟、青森などの検察庁に勤務した。歴代の多くの事務次官も、検察官出身者である。また、法務省最高幹部の大半は、検察官出身者である。
 法務省の事務方最高位である事務次官は、検察庁内部では№4程度の地位でしかなく、検事総長への出世の足掛かりに過ぎない。
 例えば、現在の検事総長である西川克行は、事務次官を歴任している。
http://www.moj.go.jp/keiji1/kanbou_kenji_01_index.html
 検察庁は行政庁、しかも法務省という行政庁の一機関でしかない。しかし、その検察庁が本体である法務省を牛耳っているのである。このこと自体、不思議な状況だが、死刑執行ともなれば一層、不思議な状況となる。死刑を要求した検察庁が、自らの要求を「正当である」と太鼓判を押して、死刑執行しているのだから。囚われた泥棒に、牢屋の鍵を渡すようなものではないか。
 7月13日付の毎日新聞の記事では、西川の死刑執行について、『同省(注・法務省)幹部は「執行を避けるための形式的な請求が繰り返されているケースもある」と指摘する』と、「法務省幹部」の談話を紹介している。この法務省幹部は、検察官である可能性が高い。本人が検察官でなくとも、法務省を支配する検察の意向を汲んで、談話を出していると考えられる。記事の見出しは、『「再審請求、形式的」法務省』となっているが、『「再審請求、形式的」検察庁』と書いた方が、正確である。この談話は、検察官(ないしはその代弁者)が「検察が獲得した死刑判決は正しい!」と言っているだけであり、公正な立場からの、信頼性のある発言とは言えない。毎日新聞は、法務省内での検察の権力、死刑執行への関与は知っている筈である。読者に正確な情報を提供したいと考えているならば、そうした内情も併記すべきではないか。 
 検察官が権力を振るっているのは、法務省の内部だけではない。本来の権限として、警察を指揮監督し、起訴権をほぼ独占し、裁判の執行を指揮し、求刑を行う権利を持っている。この求刑を通し、裁判の量刑にも、大きな影響力を持つ。有罪となれば、多くの場合、量刑は検察官の求刑に近くなるからだ。死刑求刑となれば、下される判決は軽くても無期懲役である。
 およそ酌量の余地のない事件ばかり死刑求刑されるのであれば、それでも問題ないかもしれない。しかし、光市事件判決以後は、そうではなくなっている。
 伊藤和史の共犯者である池田薫も、控訴審で減刑されたものの、無期懲役にしかならなかった。また、幼いころに自分に性的虐待を行った男性を殺害、その両親も予期せず殺傷したI・H被告も、「被害者の性的虐待によるPTSD」が検察官による精神鑑定で立証されたにもかかわらず、無期懲役にしかならなかった。現代において無期懲役とは、少なくとも30年は服役せねばならない。死刑求刑の果ての無期であれば、服役期間はより長期化する可能性が高い。
 検察官の求刑は意見に過ぎず、それに沿わねばならない法的根拠はない。それにも関わらず、量刑面についても、検察官の意見が大きく影響を及ぼしている。判決内容についても、検察官は大きな影響力を振るっているのだ。
 再審請求中の死刑執行は、検察官である法務官僚が、再審請求への判断を行っているに等しい。三権分立の侵害であり、検察官に司法の支配権を許す行為である。
 安倍総理は、「行政と立法の長」だそうだ。しかし、再審請求中の死刑執行が認められることにより、検察庁は「法務行政と司法」の支配者となるのである。

 三つ目の問題点。再審請求中の死刑執行は、憲法で保障された裁判を受ける権利を、奪うものではないか?
 刑事訴訟法442条には、『再審の請求は、刑の執行を停止する効力を有しない』と規定がされている。しかしながら、憲法32条には、以下のように規定されている。
 『何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない』
 なお、憲法は刑事訴訟法を含めたすべての法律の上に立つ最高法規であり、刑事訴訟法の在り方を拘束し、刑事訴訟法よりも優先する。
 再審請求中の死刑執行は、この「裁判を受ける権利」を実質的に奪うものではないのか。
 もちろん、再審請求の審理が憲法に言う「裁判」に当たらないのであれば、この限りではない。しかしながら、そのような説は聞いたことがない。再審請求に対しては「決定」が行われ、これは裁判所による裁判であると、刑事訴訟法の参考書には書かれている。再審請求自体が、「裁判」の一つである、非終局裁判に当たるのではないか。
 仮に、「再審請求」自体が「裁判」と言えないとしても、再審公判自体は、明らかに裁判と言える。その再審の可否について、判断を死刑執行により強制的に打ち切ってしまう。これだけでも、明らかに裁判を受ける権利を侵害していると言えるのではないか。
 なお、刑事訴訟法442条には、『検察官は、刑の執行を停止することができる』とある。しかし、再審請求は検察官が要求し獲得した判決に対し、その破棄を求めるものである。ここでも、検察官に、検察官の要求を審査させていると言えるのではないか。死刑執行は、法務大臣の命令によるので、条文上は検察官が冤罪者の口をふさぐことはできないようになっている。しかし、実際には死刑執行は検察官が上申し、多くの局面で関与をしている。本当に、検察官の死刑による隠蔽を阻止できるようになっているのか。検察官の「善意」に依拠する仕組みになってはいないか。

 私は、西川が判決通り有罪なのであれば、死刑執行は仕方がなかったと考える。しかしながら、連続殺人犯であっても裁判を受ける権利は保障されるべきであり、再審についても同様である。根拠なき再審ならば、速やかに棄却されるのであり、それをもって死刑執行すればいい。また、行政に過ぎない法務省=検察が、死刑執行により再審請求を終結させることは、行政による司法への侵害ではないか。
 そして、裁判を受ける権利を奪われるのは、西川だけでは済まないかもしれない。伊藤や松原のような死刑の正当性に疑問がある者、さらには、冤罪者たちにも、再審請求中の死刑執行が広がっていくかもしれない。「どんどん執行してほしい」「再審請求中の執行がもっと増えてほしい」と言っている方々は、あまりにも近視眼的ではないか。
 仮に、今回の死刑執行という結論が正当だったとしても、その手段が違憲違法であり、冤罪者などの救済に影を落とすことになれば、結果は是認できない。

 第二に、あの法相、あの内閣で死刑執行が行われたことについて。
 現在の内閣、法務大臣は、「国民の代表」と言えるような道徳的正当性を持ち得ているだろうか?強権的に共謀罪を裁決した金田法相も、疑惑にまみれ、反対者を「こんな人たち」などと罵倒する安倍総理も、国民の代表としてふさわしい人間か?政府は反対者や少数者の意見にも耳を傾けるべきであるが、そのような姿勢は皆無である。
 死刑執行は、お上が悪人をやっつけるお芝居ではない。国民の代表として雇用された国会議員が、行政を任され、熟慮のもとに行うべき事柄である。誰かの利益のために行われてはならないし、必要最小限度であるべきだ。
 しかし、どこか小馬鹿にしたような態度で、よどんだ眼で報道陣を睨みつける金田法相を見ていると、そのような問題意識は皆無に思えた。

 2016年12月5日、長野地裁に継続していた松原智浩の再審請求が、棄却された。
 棄却決定の理由は、未だ決定書を目にしておらず、情報も来ていないため、解らない。
 宮田弁護士たちは、12月7日に東京高裁へ抗告を行ったようである。

 請求棄却自体には、驚いていない。
 松原は、あのような事件であるにもかかわらず、深い後悔の念を抱いていた。再審請求はもちろん、控訴にさえも消極的であったのだ。根拠のない再審請求を行ったわけではないだろう。しかし、それでも受け入れられる可能性は乏しかった。
 それは、日本の裁判所は部分冤罪はおろか、完全に冤罪であろうとも、再審請求を受け入れようとはしないからだ。名張ぶどう酒事件の奥西死刑囚は、再審請求が容れられず、無念のうちに獄死した。袴田事件でさえ、再審請求決定が出るまでに33年4ヶ月もかかったのである。
 だから、残念ながら、再審請求が棄却される可能性は高いと考えていた。驚いたのは、棄却の迅速さである。

 松原が再審請求を行ったのは、2016年5月31日。わずか半年で、地裁段階で再審請求が棄却された計算になる。完全無罪を主張していない再審請求とはいえ、これはいかにも早すぎる。
 例えば、故・小林光弘死刑囚は、「殺意はなかった」として2008年11月20日に再審請求を行ったが、青森地裁で再審請求が棄却されたのは2011年6月20日である。およそ2年7ヶ月も、審理してもらえたのだ。
 この差は、いったいなぜなのか。もちろん、弁護人の熱意の差ではない。宮田弁護士たちは、きわめて熱心に松原の弁護を行っている。

 ともかく、東京高裁では慎重に審理してもらえることを望む。そして、可能性は低いかもしれないが、松原の主張が容れられることを願っている。

 5月25日、伊藤の最高裁判決に対する、判決訂正申し立てが棄却されてしまった。
 判決訂正申し立てとは、最高裁判決の文章内容や誤字脱字について、訂正申し立てを行う行為である。
 世間では上告棄却をもって死刑確定と言われるが、正確には、判決訂正申し立てが棄却された時点で、死刑確定である。なので、5月25日、伊藤の死刑は確定してしまったということだ。

 判決訂正申し立てが容れられることは殆どない。そして、容れられたとしても、判決が覆る可能性も乏しい。だから、上告棄却の判決が出た時点で、実質的な死刑確定であった。それでも、裁判手続きがすべて終了してしまったことで、死刑という言葉が、圧迫感をもって迫ってきた。

 そして、訂正申し立て棄却に伴い、伊藤は死刑囚として処遇されることとなる。外部交通が制限されるということだ。私は、伊藤に交流を申請してもらうように頼んでいるが、許可されるかは不透明である。
 しかし、なぜ一律に交流を禁止する必要があるのか。誰とも交流を持てない状況の方が、拘禁反応の悪化を招き、かえって心情の安定を害するのではないか。
 結局のところ、司法は忘却を望んでいるのだろう
 執行の前に、存在を忘れられることにより、「最初の死」を迎える。そして、この「最初の死」により、彼のために声を上げるものは、誰一人として居なくなる。当然、死刑判決の瑕疵も忘れ去られる。
 ともあれ、今のところは、伊藤との交流について待つしかないのが現実だ。
 
 なお、7月16日、真島事件について集会が行われる。これが、最後の集会となるかもしれない。
 事件に関心ある方々は、ご来場くだされば幸いです。

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 「日本の裁判は長い」
 かつて、盛んに口にされていた言葉だ。
 20世紀末には、それも間違いではなかった。しかし、21世紀の裁判に当てはめるのであれば、事実に反している。
 ゼロ年代後半から、裁判の審理時間は、大幅に短縮されてしまった。死刑事件であっても、同様である。ことに、裁判員裁判が開始されてから、その傾向は顕著となっている。

 この項では、最高裁での審理期間を見ていきたい。

 先日、藤城康孝被告の最高裁弁論期日が、2015年3月27日に指定された。
 藤城康孝は、2004年に積年の恨みから自分の血族7人を殺害。2009年に神戸地裁で死刑判決を受ける。高裁では再度精神鑑定が行われ、心神耗弱という鑑定結果も出たが、2013年4月26日に控訴棄却。つまり、控訴審判決から1年11か月で最高裁弁論が指定されたのだ。
 おそらく、4月末か5月上旬に、最高裁判決が出るであろう。控訴審判決から上告審判決まで、丸2年程度である。死刑事件としては、上告審判決まで異例の短さだ。
 
 21世紀のゼロ年代前半までは、死刑事件の裁判ともなれば、控訴審判決から上告審判決まで、最低でも4年かかり、5年~8年程度かかる事件も希ではなかった。
 しかし、2005年からは、オウム事件や一部の争点の多い事件を除き、2年数か月から3年数か月で、最高裁の審理は終了するようになった。それでも2013年までは、ほとんどの死刑事件の上告審は、3年以上の時間をとって審理していたのだ。
 以下は、2010年代に上告棄却された死刑事件被告たちの、上告審期間である。

 2010年・・・合計7人。3年以上、6人(うち1人は、あと十数日で丸4年)。2年以上、1人。
 2011年・・・合計20人。5年以上、3人。4年以上、6人。3年以上、10人。2年以上、1人。
 2012年・・・合計6人。4年以上、2人。3年以上、1人。2年以上、3人(うち2人は、あと十数日で丸3年)
 2013年・・・合計5人。3年以上、5人。

 このように、2013年までは、上告棄却まで3年未満の被告数は少ない。
 2014年以降、上告棄却により死刑が確定した被告たちの、最高裁での審理期間はどれほどであったか。

2014年
小川和弘・・・2011年7月26日、控訴棄却。2014年3月6日、上告棄却。約2年7か月。
矢野治・・・2009年11月10日、控訴棄却。2014年3月14日、上告棄却。約4年4か月。
小泉毅・・・2011年12月26日、控訴棄却。2014年6月13日、上告棄却。約2年6か月。
松原智浩・・・2012年3月22日、控訴棄却。2014年9月2日、上告棄却。約2年5か月。
奥本章寛・・・2012年3月22日、控訴棄却。2014年10月16日、上告棄却。約2年7か月。
桒田一也・・・2012年7月10日、控訴棄却。2014年12月2日、上告棄却。約2年5か月。

2015年
加藤智大・・・2012年9月14日、控訴棄却。2015年2月2日、上告棄却。約2年5か月。

 2014年に死刑確定した被告は、6人中5人が3年に満たない期間で、上告棄却されている。矢野被告は、弁護士を解任したために審理が長引いたものであり、本来であれば前年の10月か11月に刑が確定していたであろう。例外を除けば、審理期間の短縮化は歴然としている。
 そして、裁判員裁判で裁かれた3人の被告、奥本、桒田、そして、伊藤の共犯者である松原は、いずれも2年数か月の期間で上告棄却されている。
 上告審での審理期間は、2年数か月未満。それが裁判員時代の新しい基準と考えるのは、穿ちすぎだろうか?

 それにしても、審理期間を短縮して、どうなるというのか。
「裁判に時間をかけるなど、税金の無駄だ」
「被害者の事を考えれば、早く終わらせてしまえ」
 という声も、あるかもしれない。刑事訴訟法で認められている上告理由には「刑の量刑が著しく不当であること」も、含まれている。量刑についての争いは、正当な上告理由である。そして、死刑は究極の刑罰であり、濫用すべきではない。これらを鑑みれば、今一度、量刑判断に際しても、慎重に行うようにすべきではないか。

 少なくとも近年、死刑判決を受けているのは、利欲目的、性犯罪などの動機で殺人を行った者だけではない。真島事件の被告程でないにせよ、被害者側の犯罪が事件の原因となっている事例も、散見される。殺害という手段が正当化されないにせよ、そのような事件まで「被害者の事を考え」迅速に死刑を選択する行為は、「被害者」の犯罪を矮小化する、不公平な態度と言えるだろう。
 「加害者は、被害者に殺されたわけではない」という人もいるかもしれない。しかし、死刑は究極の刑罰である。動機が「被害者の犯罪」が発端である場合、被告が救いがたい人間であるか、国民が新たに人命を奪わねばならない罪であるか、判断する重要な指標となるだろう。
 また、殺人を行っていない場合でも、当人にとって殺されたに等しい被害を与える行為はある。たとえば、「被害者」が「加害者」を監禁同様にして、一切の権利を奪い、暴力をふるい続けた場合。性的被害を与えた場合。自殺さえ考えるほど追い込んだ場合。それらは、殺人、少なくとも殺人未遂に匹敵するとは言えないか。
 前述のような「厳罰化」が進行している現在、最高裁は慎重な判断を心掛けるべきではないか。

 ともあれ、この傾向を見て、私が気になることは、一つである。
 伊藤の上告審判決まで、どれほど時間が残されているのだろう?
 真島事件こそ、刑が本当に適切か、時間をかけて熟慮すべき事件だったのではないか。しかし、松原が手早く上告棄却されてしまったのは、前述の通りだ。
 伊藤を取り巻く現実は、冷たく、厳しい。最高裁は、事件の経緯に対し、真摯に向き合ってくれるのだろうか。

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