伊藤和史獄中通信・「扉をひらくために」

長野県で起こった一家三人殺害事件の真実。 そして 伊藤和史が閉じ込められた 「強制収容所」の恐怖。

裁判について

 伊藤への長野地裁判決。それが、一連の判決の元となっている。裁判員は異論があるかもしれないが、この判決がなければ、高裁、最高裁での死刑判決はなかっただろう。
 死刑確定時にも、裁判員たちが取材に応えようとしない、死刑判決。
 その長野地裁判決はどのようなものであったのか?はたして、人に死を宣告するものとして、ふさわしいものであったのか。
 内容を、分析していきたい。

(1)強盗殺人の認定について
 これについては、形式的なものであれば、成立しないとは言い切れない。しかしながら、裁判所の認定にも、いくつか疑問がある。
『被告人は,同月(注・3月)24日に約10万円,同月26日から4月初めにかけて合計70万円の分配金を得ている』
 確かに、これは事実であろう。しかしながら、結果的に金の分配に預かったからと言って、分け前をあらかじめ貰おうとしていた証拠にも、分け前を期待していた証拠にもならない。
 強盗殺人罪が成立するとしても、極めて形式的なものであることは間違いない。強盗殺人が死刑か無期懲役が規定されているのは、「金品を得るために、何ら落ち度のない人間を殺害した」という、悪質な殺人を罰するためではないのか。現に、刑法240条には『強盗が、人を負傷させたときは無期又は六年以上の懲役に処し、死亡させたときは死刑又は無期懲役に処する』とある。本来は、強盗が金を手に入れるために人を殺した場合を想定し、この条文がつくられたのではないか?
 伊藤の事件は、「強盗が人を殺した事件」と言えるのか。虐待され、脅され、搾取された被害者の立場にあった人間が、追い詰められて殺人を行った事案である。このような事件まで強盗殺人と認定するのは、拡大解釈が過ぎるのではないか。

(2)期待可能性について
 この部分の認定には、裁判官、裁判員の無感覚、無責任、冷血さがよく表れていると想う。そして、認定部分の一文ごとに、説明責任の放棄が見られる。いちいち、反論せねばならないので、長くなるが、ご容赦願いたい。

 『G,A会長一家が死亡し,真実を確かめる手立てはないが,仮に,被告人の供述するA会長親子からの虐待,搾取及び脅迫状況等が真実としても』
 長野地裁の法廷では、私が傍聴した公判だけで、物的証拠だけでも、以下のものが提出されている。概略を記す。
・伊藤が養子縁組を強要されていたことがわかる戸籍謄本。短期間に、複数の人間と養子縁組をしている。
・宮城に腹部を刺された際の、病院の入院診療録。傷について、刺創などと書かれている。平成18年12月12日に入院し、同月14日に退院。ろくに入院さえできなかったことが解る。
・伊藤の体の傷の写真。宮城と金父子に負わされた傷である。頭の傷は、二筋あり、その部分は毛が薄くなっている。腹部にも傷があり、4センチほどの長さの傷。腿にも傷があり、長さ六センチ。楕円形で、黒く変色している。手にも傷があり、これは金父子からつけられた傷である。周囲が黒くなり、中心部は白くなっている。楕円形の傷である。
・伊藤たちが金文夫からもらってい月給について。松原は一月15万円をもらっていたが、家賃6万円など様々な口実でひかれ、実際には3万円ほどしかもらっていない。池田も、2万円から4万5千円しか支給を受けていない。伊藤は、平成21年8月~11月分の給料は、約5万円となっている。これだけの金額で、朝から晩まで、肉体労働をさせられていたのである。
・金文夫が管理していた倉庫の中身について。宮城の死体が遺棄されていたレガシー、ナンバープレートや車体番号が削り取られた黒いチェイサーもある。車のセカンドバッグ内には、拳銃実包、打ちがら薬莢が入っている。実包の長さは22ミリ、打ちがら薬莢は直径10ミリである。
・金父子らの債務者への、債務取立てについての帳簿。K・Kから任意提出されたものである。債務者Aについて、「自宅にて確保、要追い込み」、債務者K「逃亡中」、債務者T「自己破産するが、回収見込みあり」、債務者N「逃亡中、住所不明」と記載があった。
・金良亮のヤミ金関係の前科。出資法違反、恐喝、傷害である。
・金良亮の殺人への関与の証拠。検察官から書類送検がされている。また、車などから宮城の血痕が発見されている。

 上記の物証だけでも、以下のことは解るのではないか。
・伊藤は宮城に養子縁組を強要されていた。
・宮城の暴力により、重傷を負わされていた。入院による傷の治療すら、ろくにできなかった。
・金父子から、労働基準法に違反する、あまりに安すぎる給料で、働かされていた。
・金父子は闇金を営み、債務者に強く追い込みをかけていた。自己破産後にも取り立てようとする、違法な行為を行っていた。また、金良亮は、ヤミ金に絡んだ暴力事件の前科がある。
・金父子は違法に車を改造し、拳銃を所持していた。
・少なくとも、金良亮は、宮城を殺害していた。その後、宮城に支配されていた伊藤を、真島の家に連れてきて、労働基準法に違反する激安の給料で、働かさせていた。
・伊藤は、働いている間に、金父子から暴力を受けることがあり、宮城程ではないにせよ、体に傷が残っている。
 この物証だけでも、伊藤が宮城から犯罪被害を受けて搾取され、続けて金父子からも搾取されて暴力を受けていたことが解る。金父子は闇金を営んで多くの人々を苦しめ、少なくとも良亮は宮城を殺害していたことも解る。

 また、伊藤の公判供述や共犯者の公判証言を参考にしなかったとしても、公判では、以下のことが明らかになっている。
・真島事件の発覚前、遺族K・Kの主導により、遺族K・Aらにより、少なくとも7500万相当の現金と、ほか貴金属、大量の書類が、真島の家以外の場所に運ばれた。(K・A証言による)
・遺族K・Kは、3月28日に高田の倉庫に入った際、ごちゃごちゃした倉庫の中、隅に止められほかの車に隠されたような形のレガシーまで、スムーズに一直線に移動した。レガシーで死体の臭いをかいだが、被害者のうち誰かの死体ではないかとも考えず、二週間後の4月10日に警察により死体が発見されるまで、警察に話すこともなく放っておいた。(K・K証言による)
・遺族であるK・KとK・Aは、真島の家がまともな環境であるかのように言っていた。しかし、K・Kは真島の家に来るのは、月一度程度である。K・Aは、伊藤たちが真島の家にいる時間は、殆ど顔を合わせていない。(K・K、K・Aの証言による)
・伊藤は家族思いな人間であり、家族と離れたくないと考えていた。しかし、金父子と同居させられている間、なかなか家に帰ってこられなかった。伊藤は自信喪失し、怯えている様子であった。また、鬱病のようにも見えた。(伊藤の妻の証言による)

 ヤミ金を営んでいた金父子の家から、書類や現金が大量に運ばれる。運ばれたものを、ヤミ金と関連付けるのは、不当ではあるまい。また、K・Kの行動は、宮城の遺体の存在を知らなかったにしては、不審すぎる行動である。そして、伊藤や松原と顔を合わせる頻度の少なさから、K・KとK・Aが、金父子からの暴力を目撃できる状況にあったとは考えられない。遺族たちの証言は、金父子や周辺の血なまぐささと、不信感を印象付けるものばかりとなっている。
 伊藤の妻は、伊藤の関係者である。伊藤に有利な嘘をつく動機があると、疑えないこともないかもしれない。しかし、松原が証言する伊藤の様子、伊藤自身が語る心理状態と、伊藤の妻の証言内容はほぼ一致している。伊藤が家族と会うことができなかったことを考えると、伊藤の妻は、松原との口裏合わせはもちろん、伊藤との口裏合わせも、することなどできない。それを考えると、伊藤の妻から見た事実を語っていると考えて、問題はあるまい。

 このように大量の証拠があるにもかかわらず、何を理由に、伊藤の主張に疑念を抱いたのか。判決文では、何ら説明がされていない。説明責任そのものを放棄している。

 『A会長親子から,自己や家族に危険が及んだ事態を緊迫感をもって具体的に供述していない』
 前科前歴がない人間が、法廷で雄弁に話すのは、相当難しいとは思わないのだろうか。また、どの点が緊迫感や具体性がないと思えたのか、何ら説明をしていない。「具体的」ではないのは、どちらだろう。なお、伊藤は金父子の言動、宮城殺害を目撃した際の衝撃などを、被告人質問で細かく述べている。その声は暗く苦しげであり、瀕死のヒナのように弱々しかった。内容のどこに、供述態度のどこに、「切迫感」「具体性」を感じなかったのか、ぜひとも詳述してほしい。

 『被告人は,A会長一家殺害の約1か月前から,共犯者Cと計画を練り,もう1名の殺害実行役や遺体の運搬処分役を引き込み,睡眠薬やロープを用意するなどして準備を整え,犯行前日にも,A会長親子殺害を試みたものの困難とみるや断念し,最後はB専務のために夜食を作る機会を捉えて睡眠導入剤を摂取させるなど,合理的に余裕をもって行動していることが見て取れる。』
 10分程度の謀議を、2,3回行っただけという事件が、余裕を持って行動していると言えるのか。なお、のちには計画性について「必ずしも綿密ではない」という認定が出てくる。余裕を持って行動しているのならば、綿密な計画を立てるはずではないか?このような矛盾する内容が、この判決文中には頻出するのである。

 『被告人がA会長親子殺害を実行した際も,B専務は昏睡し,A会長も就寝していたのであるから,被告人等に危険が及ぶような切迫した状況にあったとは到底いえない。したがって,被告人としては,A会長宅から逃亡するなり,警察に助けを求めるなど殺害以外の方法を検討する余裕は,物理的にも精神的にもあったというべきである。』
 睡眠薬を飲ませていても、数時間後には起きるだろう。金父子が起きるまでに、警察が動いて、家族を保護し、金父子らの犯罪の実態を解明してくれることが、どれほど期待できたのか?現実味があるとは思えない。なお、伊藤も松原も、家族を守りたいと考えているので、一人だけで逃げるわけにはいかない。

 『実際,□□から逃げた従業員もいるのであるから,被告人に対しても,そうした合法的な方法を採るべきことを期待することも苛酷とはいえない。』
 一部の逃げた人たちは、裏社会につてがあったから、あるいは、家族を見捨てたから、逃げられたんだよ。それは、松原も証言しており、伊藤も述べていた!また、債務者たちは逃げたとしても、徹底的に追い込みをかけられていた。発見され、拘束されてしまった人もいた。それは、長野地裁公判で開示された、金文夫作成の書類に記載があったことである。殺害という方法が肯定できないのは解るが、被告たちが追いつめられていた状況を、ここまで考慮しないのは、十分に苛酷かつ冷血な態度だ。
 そして、被告側が提出した証拠に対し、ろくに反論もしていない!「家族のことを思うと逃げられない」という言葉、追いつめられて拘束された債務者もいる、という証拠。これに、検討すら加えず、無視しているのだ。

 また、森武夫証人の心理鑑定については、以下のように評価、いや、難癖をつけている。
 『森意見は,単なる心理分析の域を出ず,種々の曖昧な概念に依拠するものであり,何よりも,被告人自身,前述したように状況の推移に応じた現実検討能力を示す行動に出ていることは,森意見の決定的な矛盾点である。また,森意見によっても,被告人につき,適法行為を要求することができない切迫した心理状況や犯行動機の形成過程を説得的に説明できていない。』
 これが、森鑑定への判断の全文である。
 どの点を曖昧と考えたのか、どの点が説得的に説明できていないと考えたのか、それこそ、説得的に説明できていない。このような曖昧すぎる説明では、検討も反論も、ほぼ不可能である。もしかして、それが目的だったのだろうか。


(3)情状認定について
まず、楠見由紀子について、判決は以下のように認定している。
 『犯行完遂の邪魔者として,巻き添えとなって殺害されたもので,理不尽な凶行の犠牲者である』
 これについての疑問は、幾度もすでに書いている。池田への堕胎強要の言葉、同居していればヤミ金については当然知っていたであろうことは、すでに長野地裁で証拠として表れていたはずだ。

 『先行する遺体遺棄事件においては,遺体をブルーシートにくるんでコンテナボックス内に押し込み,車両の後部荷室に積み込んだまま,2年近くの間放置していたのであるから,その悪質性も看過できない。』
 それは、むしろ殺人、死体遺棄を主導した「犯罪被害者」である金良亮に言ってほしいものだ。

『確かに,関係証拠によっても,弁護人が指摘する事情には,一面の真理があることは否めないが』
 この部分が、最も読むに堪えない箇所であった。裁判官と裁判員たちは、伊藤たちの受けた犯罪被害を正面から認定することを避けた。そのくせ、「きちんと検討した」というアリバイのために、にこのような文章を入れているとしか思えない。

『家族の元に帰りたい,A会長親子から解放されたいという自己の希望を,解決のため何らかの手だてを試みることなく,3名を殺害することによってこれを果たそうというのは,あまりに安易に自己の利益を被害者の生命より優先させたものである。』
 自分や家族の生命身体の自由を守ろうとするのは、「許されぬ希望」であり、「自己の利益」と言われるような性質のものなのか。人間として、当然の権利ではないのか。人を何だと思っているのだろう。

『A会長親子からの支配が犯行動機形成につながっていることや利欲目的が副次的であったことは,量刑上考慮するにしても』
 それにしても、判決文内の事実認定すら、一定させることが出来ないらしい。最初は、「真実だとしても」だの、「説得的に説明できていない」だの、さも嘘を言っているとでも言いたげにゴニョゴニョと「曖昧な」「説得力のない」書き方で、言葉を濁している。しかし、それでは事件の原因について説明できないと考えたのか、いつの間にか、金父子からの支配という事実を目立たぬように認めている。姑息である。

『特殊な環境下で行われた犯罪であるからといって,殺人を正当化することはできない。』
 伊藤の事件は、自らや家族を防衛するという点において、「正当防衛」や「死刑執行」とさほど距離があるわけではないと思うが、犯罪が成立することは事実である。なので、誰も無罪にすべきとは言っていない。
 無罪とすることと、酌量の余地を認定し、大きく減軽することは、全く異なる。後者は、「被害者」の犯罪をきちんと認定することであり、社会的に否定されるべき事柄を、否定するだけのことだ。裁判官と裁判員こそ、「被害者」の犯罪を大きく矮小化し、目をそらしている。それは、殺人、出資法違反、監禁、傷害、さらには奴隷的労働や債務者を自殺に追いやったことを、正当化したにほかならない。無罪と、「被害者の犯罪を認定することを通し、酌量減刑を行うこと」の差異さえも、高木順子裁判官たちと、裁判員は、理解していないのか。

 判決後の記者会見では、『みんな悩んだ』と述べている裁判員もいた。しかし、判決からは真摯な検討はおろか、事実に正面から向き合おうという、最低限の意思さえも、感じられなかった。

 なお、松原の高裁判決時には、控訴を棄却した井上裁判長は、伊藤への長野地裁判決での情状認定について、次のように発言している。
『なぜか、記述されていないが』
 どこか皮肉がこもっており、呆れているようでもあった。裁判官から見ても、一審判決は不誠実極まりないものだったのだろう。伊藤の控訴審を担当した村瀬均裁判長たちは、不備や欠落はあったものの、詳細に「被害者」たちの犯罪について事実認定を行った。一審判決があまりにもずさんだったので、控訴審判決で、詳細に書かねばならなかった面もあるだろう。
 
 このような、不誠実かつ欠陥だらけの判決により、伊藤と松原の運命は決められてしまったのである。

 2017年8月10日、松原智浩の即時抗告が、東京高裁で棄却された。
 状況は非常に絶望的だが、何とか頑張ってもらいたい。私自身は松原と交流できていないので、応援することしかできないのが現状だ。
 最高裁では、少しでも慎重に審理してもらいたい。また、再審請求の趣旨から外れることは百も承知だが、松原の被害者からの犯罪被害という、事件の本質にも目を向け、少しでも配慮してもらえればと思う。

 7月13日、西川正勝、住田紘一の死刑が執行された。西川が再審請求中の死刑執行だったこともあり、今回の死刑執行は比較的報道されている印象だ。
 私は、今回の死刑執行について非常に驚いた。まさか、内閣改造による辞任(辞任せざるをえまい)ぎりぎりに執行をするとは思わなかったのだ。世間ではその強権ぶりで非難を浴び、辞任をあと二十日ほど後に控えている。「熟慮を重ねた」という決まり文句を垂れ流すが、本当にこのタイミングで、熟慮して執行する余裕があったのだろうか。
 今回の執行については書くべきことが多いので、いくつかに分割する。

 まずは西川正勝の死刑執行について。一件の殺人と三件の強盗殺人(本当の金目当ての殺人)で死刑が確定した。公判時から、強盗殺人三件については無罪を主張し、再審請求をしていたようである。
 彼は、再審請求中に執行された。再審請求中の死刑執行は、1999年に死刑執行された、長崎県老女殺害事件の小野照男以来である。そのほかには、1958年に、福岡で再審請求中の死刑執行があった。その死刑囚は無罪を主張して、再審請求を頻繁に行っており、同時期に死刑が確定していた免田栄さんは冤罪の可能性を指摘している。なお、西川には殺人前科があったが、小野にも殺人前科があった。それも、執行への心理的障壁を消したのかもしれない。もちろん、前科があったからと言って有罪ということにはならず、本来であれば有罪無罪とは分けて考えるべきものである。
 西川の訴えの通り無罪であれば不当な執行と言えそうだが、本当にすべての事件で有罪であったのならば、死刑執行は仕方なかったかもしれない。
 西川が有罪であるならば、再審請求中に執行されたこと、金田勝年により執行されたことを除いて、特に思うところはない。

 第一に、再審請求中の死刑執行について。
 これには、三つの問題があると考える。
 一つ目の問題。再審請求中の死刑執行が、冤罪者の救済を不可能にする行為であることは、言うまでもない。
 免田事件、島田事件、松山事件で警察・司法の被害にあった人々、冤罪者たちは、何十年間も再審請求を行い、漸く無罪が認められた。再審請求中に執行がされていれば、当然ながら冤罪は闇に葬られただろう。「再審請求中の死刑執行」を是認することは、そのような事態の是認にも繋がりかねない。仮に、西川の再審請求が根拠ないものであれば、またもや速やかに棄却されたであろう。再審請求の棄却を待って死刑執行しても、特に問題ないのではないか。

 そして、二つ目の問題。これは、あまりピンとこないことかもしれない。再審請求中の死刑執行は、検察庁による司法権の侵害ではないか。
 再審請求中の死刑執行は、法務省が再審請求を強制的に打ち切ることに他ならない。つまり、実質的に法務省という行政が司法に介入し、死刑囚の有罪無罪を判断しているに等しい。もちろん、再審請求に判断を示すのは、裁判所という司法の役割である。
 その点は誰も言及しないが、司法権の根幹を揺るがしかねない問題ではないのか。
 検察官がどう絡んでくるのか?と考える方もいると思うので、先を急ごう。
 まず、法務省における法務大臣の役割は、金のかかる看板に堕している。そして、法務行政を実質的に支配しているのは、検察官である。
 死刑執行命令書に公印を押しているのは、事務方である。法務大臣は、「死刑事件審査結果」という書類に判を押すだけだ。このように、命令書に判を押さないことで、責任者である法務大臣が、なるべく責任を軽減されるシステムになっている。また、死刑執行の上申を行うのは、法務官僚と検察庁である。
 そして、「法務官僚」とはいうが、その実態は検察官である。
 例えば、現在の法務省事務次官である黒川弘務は、元検察官である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B7%9D%E5%BC%98%E5%8B%99 
 1983年に検察官に任官し、東京、新潟、青森などの検察庁に勤務した。歴代の多くの事務次官も、検察官出身者である。また、法務省最高幹部の大半は、検察官出身者である。
 法務省の事務方最高位である事務次官は、検察庁内部では№4程度の地位でしかなく、検事総長への出世の足掛かりに過ぎない。
 例えば、現在の検事総長である西川克行は、事務次官を歴任している。
http://www.moj.go.jp/keiji1/kanbou_kenji_01_index.html
 検察庁は行政庁、しかも法務省という行政庁の一機関でしかない。しかし、その検察庁が本体である法務省を牛耳っているのである。このこと自体、不思議な状況だが、死刑執行ともなれば一層、不思議な状況となる。死刑を要求した検察庁が、自らの要求を「正当である」と太鼓判を押して、死刑執行しているのだから。囚われた泥棒に、牢屋の鍵を渡すようなものではないか。
 7月13日付の毎日新聞の記事では、西川の死刑執行について、『同省(注・法務省)幹部は「執行を避けるための形式的な請求が繰り返されているケースもある」と指摘する』と、「法務省幹部」の談話を紹介している。この法務省幹部は、検察官である可能性が高い。本人が検察官でなくとも、法務省を支配する検察の意向を汲んで、談話を出していると考えられる。記事の見出しは、『「再審請求、形式的」法務省』となっているが、『「再審請求、形式的」検察庁』と書いた方が、正確である。この談話は、検察官(ないしはその代弁者)が「検察が獲得した死刑判決は正しい!」と言っているだけであり、公正な立場からの、信頼性のある発言とは言えない。毎日新聞は、法務省内での検察の権力、死刑執行への関与は知っている筈である。読者に正確な情報を提供したいと考えているならば、そうした内情も併記すべきではないか。 
 検察官が権力を振るっているのは、法務省の内部だけではない。本来の権限として、警察を指揮監督し、起訴権をほぼ独占し、裁判の執行を指揮し、求刑を行う権利を持っている。この求刑を通し、裁判の量刑にも、大きな影響力を持つ。有罪となれば、多くの場合、量刑は検察官の求刑に近くなるからだ。死刑求刑となれば、下される判決は軽くても無期懲役である。
 およそ酌量の余地のない事件ばかり死刑求刑されるのであれば、それでも問題ないかもしれない。しかし、光市事件判決以後は、そうではなくなっている。
 伊藤和史の共犯者である池田薫も、控訴審で減刑されたものの、無期懲役にしかならなかった。また、幼いころに自分に性的虐待を行った男性を殺害、その両親も予期せず殺傷したI・H被告も、「被害者の性的虐待によるPTSD」が検察官による精神鑑定で立証されたにもかかわらず、無期懲役にしかならなかった。現代において無期懲役とは、少なくとも30年は服役せねばならない。死刑求刑の果ての無期であれば、服役期間はより長期化する可能性が高い。
 検察官の求刑は意見に過ぎず、それに沿わねばならない法的根拠はない。それにも関わらず、量刑面についても、検察官の意見が大きく影響を及ぼしている。判決内容についても、検察官は大きな影響力を振るっているのだ。
 再審請求中の死刑執行は、検察官である法務官僚が、再審請求への判断を行っているに等しい。三権分立の侵害であり、検察官に司法の支配権を許す行為である。
 安倍総理は、「行政と立法の長」だそうだ。しかし、再審請求中の死刑執行が認められることにより、検察庁は「法務行政と司法」の支配者となるのである。

 三つ目の問題点。再審請求中の死刑執行は、憲法で保障された裁判を受ける権利を、奪うものではないか?
 刑事訴訟法442条には、『再審の請求は、刑の執行を停止する効力を有しない』と規定がされている。しかしながら、憲法32条には、以下のように規定されている。
 『何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない』
 なお、憲法は刑事訴訟法を含めたすべての法律の上に立つ最高法規であり、刑事訴訟法の在り方を拘束し、刑事訴訟法よりも優先する。
 再審請求中の死刑執行は、この「裁判を受ける権利」を実質的に奪うものではないのか。
 もちろん、再審請求の審理が憲法に言う「裁判」に当たらないのであれば、この限りではない。しかしながら、そのような説は聞いたことがない。再審請求に対しては「決定」が行われ、これは裁判所による裁判であると、刑事訴訟法の参考書には書かれている。再審請求自体が、「裁判」の一つである、非終局裁判に当たるのではないか。
 仮に、「再審請求」自体が「裁判」と言えないとしても、再審公判自体は、明らかに裁判と言える。その再審の可否について、判断を死刑執行により強制的に打ち切ってしまう。これだけでも、明らかに裁判を受ける権利を侵害していると言えるのではないか。
 なお、刑事訴訟法442条には、『検察官は、刑の執行を停止することができる』とある。しかし、再審請求は検察官が要求し獲得した判決に対し、その破棄を求めるものである。ここでも、検察官に、検察官の要求を審査させていると言えるのではないか。死刑執行は、法務大臣の命令によるので、条文上は検察官が冤罪者の口をふさぐことはできないようになっている。しかし、実際には死刑執行は検察官が上申し、多くの局面で関与をしている。本当に、検察官の死刑による隠蔽を阻止できるようになっているのか。検察官の「善意」に依拠する仕組みになってはいないか。

 私は、西川が判決通り有罪なのであれば、死刑執行は仕方がなかったと考える。しかしながら、連続殺人犯であっても裁判を受ける権利は保障されるべきであり、再審についても同様である。根拠なき再審ならば、速やかに棄却されるのであり、それをもって死刑執行すればいい。また、行政に過ぎない法務省=検察が、死刑執行により再審請求を終結させることは、行政による司法への侵害ではないか。
 そして、裁判を受ける権利を奪われるのは、西川だけでは済まないかもしれない。伊藤や松原のような死刑の正当性に疑問がある者、さらには、冤罪者たちにも、再審請求中の死刑執行が広がっていくかもしれない。「どんどん執行してほしい」「再審請求中の執行がもっと増えてほしい」と言っている方々は、あまりにも近視眼的ではないか。
 仮に、今回の死刑執行という結論が正当だったとしても、その手段が違憲違法であり、冤罪者などの救済に影を落とすことになれば、結果は是認できない。

 第二に、あの法相、あの内閣で死刑執行が行われたことについて。
 現在の内閣、法務大臣は、「国民の代表」と言えるような道徳的正当性を持ち得ているだろうか?強権的に共謀罪を裁決した金田法相も、疑惑にまみれ、反対者を「こんな人たち」などと罵倒する安倍総理も、国民の代表としてふさわしい人間か?政府は反対者や少数者の意見にも耳を傾けるべきであるが、そのような姿勢は皆無である。
 死刑執行は、お上が悪人をやっつけるお芝居ではない。国民の代表として雇用された国会議員が、行政を任され、熟慮のもとに行うべき事柄である。誰かの利益のために行われてはならないし、必要最小限度であるべきだ。
 しかし、どこか小馬鹿にしたような態度で、よどんだ眼で報道陣を睨みつける金田法相を見ていると、そのような問題意識は皆無に思えた。

 2016年12月5日、長野地裁に継続していた松原智浩の再審請求が、棄却された。
 棄却決定の理由は、未だ決定書を目にしておらず、情報も来ていないため、解らない。
 宮田弁護士たちは、12月7日に東京高裁へ抗告を行ったようである。

 請求棄却自体には、驚いていない。
 松原は、あのような事件であるにもかかわらず、深い後悔の念を抱いていた。再審請求はもちろん、控訴にさえも消極的であったのだ。根拠のない再審請求を行ったわけではないだろう。しかし、それでも受け入れられる可能性は乏しかった。
 それは、日本の裁判所は部分冤罪はおろか、完全に冤罪であろうとも、再審請求を受け入れようとはしないからだ。名張ぶどう酒事件の奥西死刑囚は、再審請求が容れられず、無念のうちに獄死した。袴田事件でさえ、再審請求決定が出るまでに33年4ヶ月もかかったのである。
 だから、残念ながら、再審請求が棄却される可能性は高いと考えていた。驚いたのは、棄却の迅速さである。

 松原が再審請求を行ったのは、2016年5月31日。わずか半年で、地裁段階で再審請求が棄却された計算になる。完全無罪を主張していない再審請求とはいえ、これはいかにも早すぎる。
 例えば、故・小林光弘死刑囚は、「殺意はなかった」として2008年11月20日に再審請求を行ったが、青森地裁で再審請求が棄却されたのは2011年6月20日である。およそ2年7ヶ月も、審理してもらえたのだ。
 この差は、いったいなぜなのか。もちろん、弁護人の熱意の差ではない。宮田弁護士たちは、きわめて熱心に松原の弁護を行っている。

 ともかく、東京高裁では慎重に審理してもらえることを望む。そして、可能性は低いかもしれないが、松原の主張が容れられることを願っている。

 5月25日、伊藤の最高裁判決に対する、判決訂正申し立てが棄却されてしまった。
 判決訂正申し立てとは、最高裁判決の文章内容や誤字脱字について、訂正申し立てを行う行為である。
 世間では上告棄却をもって死刑確定と言われるが、正確には、判決訂正申し立てが棄却された時点で、死刑確定である。なので、5月25日、伊藤の死刑は確定してしまったということだ。

 判決訂正申し立てが容れられることは殆どない。そして、容れられたとしても、判決が覆る可能性も乏しい。だから、上告棄却の判決が出た時点で、実質的な死刑確定であった。それでも、裁判手続きがすべて終了してしまったことで、死刑という言葉が、圧迫感をもって迫ってきた。

 そして、訂正申し立て棄却に伴い、伊藤は死刑囚として処遇されることとなる。外部交通が制限されるということだ。私は、伊藤に交流を申請してもらうように頼んでいるが、許可されるかは不透明である。
 しかし、なぜ一律に交流を禁止する必要があるのか。誰とも交流を持てない状況の方が、拘禁反応の悪化を招き、かえって心情の安定を害するのではないか。
 結局のところ、司法は忘却を望んでいるのだろう
 執行の前に、存在を忘れられることにより、「最初の死」を迎える。そして、この「最初の死」により、彼のために声を上げるものは、誰一人として居なくなる。当然、死刑判決の瑕疵も忘れ去られる。
 ともあれ、今のところは、伊藤との交流について待つしかないのが現実だ。
 
 なお、7月16日、真島事件について集会が行われる。これが、最後の集会となるかもしれない。
 事件に関心ある方々は、ご来場くだされば幸いです。

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