伊藤和史獄中通信・「扉をひらくために」

長野県で起こった一家三人殺害事件の真実。 そして 伊藤和史が閉じ込められた 「強制収容所」の恐怖。

獄窓から

 ブロガーさん、こんにちは。
 あなた様の大切なお時間を使わせて頂くとともに、お世話になります。
 本日、10月29日の東京は空が青く良い天気です。
 朝晩は徐々に寒くなりましたが、お元気でしょうか。
 私は先週の10月22日の晩から、ちょこっと風邪にやられ始めましたが、この東京拘置所で戴いた風邪薬と私のために差入れて頂いた食べ物、そして暖かい衣類のおかげで、2・3日の間に元気になりました。
 少しでも体調が悪くなった時の独りというのは、とても心細いものです。
 しかし、それも私自身が犯した罪への罰だと想っております。

 話は一転しますが、先日は私に逢いに来て下さり、大変に感謝している次第です。
 約15分間というあっという間の面会時間ではありますが、私にとって世間での会話レベルを取り戻すための良いリハビリになって、非常に助かっております。
 相変わらず、私は頭の中でたくさんの言葉が交錯してしまって、途中から何を話しているのか解らなくなってしまいました。
 そんな私に対して、黙って私の声を聞いて下さるあなた様に、重ね重ね感謝致します。
 それと、もうひとつ、お金の差入までして頂き、本当にすみません。
 資力の無い私には、食べ物や日用品、その他のものと同じくらいに、お金の差入も大変に助かります。
 差入告知を受けた時、有難く頂戴しました。
 ありがとうございます。
 早速、そのお金で夏もの衣類の洗濯代にさせて頂きました。
 この東京拘置所に移送される前の長野県の刑事施設では、洗濯代を必要とすることは全くありませんでしたが、東京拘置所での洗濯は、肌着や下着、靴下だけしか受けて下さらない。
 それ以外は、すべて東京拘置所が指定するクリーニング店にて有料なので困ったものです。
 そんな贅沢は言ってられないですね。
 今、こうして生きていること事態が、有難いわけですから。
 ところが、同じ服を着続けることくらい我慢しなければいけないのに、つい、“きれいな服が着たい”という欲に負けてしまいました。
 そういう欲の方が困りものですね。
 お礼の意が徐々に私の愚痴っぽい内容になりつつありますので、ここで止めておきます。

 先日の面会のお話の中で、私の手記(「心のおと」)を載せて頂けるということで、これから少しずつお世話になります。
 その件において、少し時間といいますか、現在、時間に余裕がありません(『忙しい』という言葉が嫌いなので表現を変えております)ので、綴り次第で送付いたします。
 私の勝手で申し訳ありません。
 宜しくお願い致します。

 では、ここでペンを置こうと想いますが。
 改めまして、逢いに来て下さり、そしてお金の差入まで、ありがとうございます。
 又、ブロガーさんの大切なお時間と大切な生活の一部を私に与えて下さったことも感謝しております。
 10月が早くも終わりを迎えつつあり、増々寒さを感じるようになりつつあります。
 どうか、お身体にはご自愛ください。
 今日も一日、お疲れ様です。
 失礼致します。
 平日、一日一通制限により、発信が集中して遅れること、大変に申し訳ありません。

2014年10月29日(水) 伊藤和史

「伊藤和史から、ブログへ」

 ブロガーさん、こんにちは。
 お手紙とブログのコピーを送って下さり、ありがとうございます。
 お手紙は昨日(10/9)に、ブログのコピーは本日、10月10日に私の手元に届きました。
 近頃は日中と晩の気温差がはっきりとして、晩は時々、肌寒く感じることがありますが、お元気にされているでしょうか。
 私は先日にお逢いした時と変わらず、何とか元気にしております。

 「死刑囚絵画展」に行かれたのですね。
 たくさん展示されている中から、私の作品を見つけて頂き、大変に嬉しく思います。
 私は元々、絵は観るだけで絵を描かない人だったのですが、現代の状況において、精神的なものもあり、いつ死に足を突っ込むのか解らないため、自分が生きている証として、この世に何かを残そうと想いました。そして、昨年(平成25年)の大道寺幸子基金が運営する「死刑囚表現展」から絵を描くようになりました。
 想像で描く絵は、神経も体力も激しく浪費しますので、非常に疲れます。
 ですので、自分で想うのもなんですが、私の描く絵は私の命の一部だと想っております。
 以前より、逢いに来て下さる方、又、お手紙が増えたのでは?とのことですが、そのイベントのおかげで私の描いた絵に出会って向き合って下さった方からがほとんどで、私への感想や激励を伝えるために、わざわざ、私のところへ足を運んで下さったり、お手紙も同様で一時的に接見が増えました。
 ただ、今後の交流に繋がるのかは解りません。
 でも、皆様の大切なお時間をこの私のために費して下さるお気持ちは、とっても有難く想うとともに感謝の想いでいっぱいです。
 皆様が、たくさん展示されている中から2点しかない私の作品をみつけて頂き、向き合って下さることに、私の方こそ感銘を受ける次第です。
 心温かい方々に恵まれて本当に支えられます。

 松原さんの上告棄却の判決は、非常に心が痛むばかりです。
 本日まで、どのくらいの眼に涙を浮かべたのか覚えておりません。
 7月15日の弁論が行われるまでに「何とかして、松原さんの死刑判決回避を」と想い、松原さんの命の保障も訴えるべく、減刑嘆願書を作成して最高裁へ上申したわけですが、結果、何も実りませんでした。
 松原さんの上告棄却を知った時には本当に深く落ち込み、私は松原さんの人生をねじ曲げただけではなく、この状況下においても、まだ、私は人の命を奪ってしまうのかと胸が締め付けられる想いです、今も。
 松原さんの判決も、2月27日の池田さんの控訴審判決のように、死刑判決を破棄してほしかった。
 池田さんの死刑判決の破棄を知った時、私はこの独居房の中で力強くガッツポーズをして本当に心から喜びました。
 私はこの状況で、池田さんの命を奪うことがなくなったから。
 私の心の中から抱えていた重荷がひとつ減ったから。
 だから、本当に喜びました。
 池田さんには死刑破棄の代わりに、この先、長い受刑生活を過ごさせることになりましたが、それでも、命の保証がされる・されないとでは大きく違うと想います。又、これから先は一時期でも死刑判決を受けて絶望的な想いをさせてしまったので、一日一日を大切に生きてほしいと、心から想う。
 事件に至るまでの、「誘った」という当時の私の心境は、松原さん、池田さん、斎田さんに対しても事実は全く変わりません。
 ただ、現在の私の心境としては、3人に対して「巻き込んでしまった。共犯にしてしまった。」という想いで、申し訳なく心苦しい気持ちです。
 主導者として認定されている私は、松原さんの上告棄却に伴い、私の上告審は非常に厳しい、狭き門になることと想います。
 それでも、私は諦めず訴えていきますし、又、松原さんの命を守り続けることは私の中にある責任のひとつと理解しておりますので、この身体が壊れるまで頑張ります。
 頑張るといっても、実際は私ひとりで頑張れているわけではありません。
 一時期は、本当に自分の人生を捨てようと考えておりましたが、これまで、ブロガーさんのあなた様や他に私のことをお心に掛けて下さる方々のおかげで生きて償うことを教えられ、そして支えられて、こうして私は一秒一秒生きることができております。
 人を殺めた、こんな私に明日という命を繋げて下さるなんて。
 私に寄り添って下さる皆様に本当に感謝するばかりです。
 つい、感情的に綴ってしまいました。
 資力の無い私には余程のことがない限り、便箋にも自己制限を掛けなければ、他の方にも他のことにも綴れなくなってしまいますので、勝手ながら、ここでペンを置かせて頂きます。
 すみません。
 この度から、ブログへお世話になりますが、お互いに上手くシェアできれば幸いです。そして、ブロガーさんの大切なプライベートの一部を、この私が使うことになり大変に申し訳なく想いますが、私はこの機会に感謝するとともに大切にしたいと心から想います。

 では、体調にはくれぐれもご自愛ください。
 今日一日、お疲れ様です。

2014・10・10(金) 伊藤和史


伊藤和史からの手紙・2014年10月10日4
伊藤和史からの手紙・2014年10月10日3
伊藤和史からの手紙・2014年10月10日2
伊藤和史からの手紙・2014年10月10日1


 この日の伊藤は、袖なしシャツに半ズボン、という格好だった。以前と比べ、前髪が伸びたようだった。私の姿を見ると、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
 文通の状況について聞くと、最近になってから文通相手が増えたらしい。しかし未だ文通のみであり、面会まではいっていないようだ。
 「そこまで、図々しいことは言えません」
 相手にかける交通費と時間の負担について、気を遣っている様子だった。小菅は東京の外れであり、都民でも東京拘置所に行くのは一苦労であろう。
 しかし、伊藤は現在、他人と話せない環境にいる。『長野の会』は東京近辺に居住しているメンバーはおらず、一般面会はあまり行われていない。ひと月のうちほとんどは、刑務官以外の他人と話さない計算だ。その刑務官も、必要最低限以外には、収容者との会話は許されていない。先日は、死刑廃止団体である『そばの会』の人々が三人で面会に訪れたが、うち二人は初対面だったこともあり、あまり深い話はできなかったらしい。
 伊藤は、差入について「助かりました」と礼を述べた。拘置所生活も、なかなか物入りが多いらしい。例えば、クリーニングは有料であり、ジャージの上下を出したら1300円かかってしまう。汗をかきやすい夏では、随分とお金がかかってしまうのではないか。そのような負担の中、少しの差入でもありがたいようだ。
 縄跳びについても、話題に出た。この日の二重跳びは、107回を達成した。うれしそうに笑いながら、手を見せてくれた。指には、水ぶくれができていた。
 また、最近は眠りが浅いとも教えてくれた。理由の一つは、今作ろうとしている本に関係している。伊藤は、かねてから詩集のような本を書きたい思いがあった。そのため、日々、思いついた言葉を書き留めている。
 「夜中に言葉を思いついたら、ぱっと起きて、紙に書きつける。寝ているか起きているか、よう解らん」
 伊藤は、照れたような笑みを浮かべ、言った。縄跳びや本の作成など、これだけを見れば、真島の家の体験から脱却しつつあるように思える。しかし、眠れないもう一つの理由は、『真島の家』の記憶が関係していた。
 「夜中の足音、文夫さん、良亮さんの足音を思い出してしまう。そして、気が張って目が覚めてしまう」
 真島の家では、身体、生命の安全は常に脅かされていた。精神的にも拘束されている状態であり、トイレ以外に安らげる場所がなかった。拘置所が自由と感じられるような生活。その体験は、伊藤の記憶の中に根を張っている。
 上告趣意書の締め切りが近づいていることも、眠りの浅さに拍車をかけていた。
「当時の心理状態を、言葉にしないといけない。けれど、難しい」
 困惑したように言う。そもそも、気持ちを言葉にするのは難しいものだ。ましてや、『真島の家』のような、恐怖と睡眠不足で心が凍りついているような状況では、言葉にするのはなおさら難しいのではないか。そして、気持ちを思い出すことで、真島の家の記憶も思い出してしまうのかもしれない。

 話は変わり、本の差し入れについて、「ありがとうございます」と礼を口にした。英語や中国語の日常会話はできたとのことだったので、てっきり英米や中国に興味があるのかと思っていた。しかし実際は、料理やジャズが好きだったため、関心を抱いたらしい。
なかでも、料理は小さいころから作っていたこともあり、好きだった。そのため、学校を中退してからは、インド料理店に就職した。しかし、持病のヘルニアが悪化して立ち仕事ができなくなり、退職を余儀なくされた。それでも料理は好きゆえ、家庭でもよく料理を作っていた。宮城に搾取されていた時期も、家に帰れた時には、自分で料理を作っていたほどだ。
 「台所が一番好き。僕の部屋みたいなもんやから」
 伊藤は料理店を辞めた後、派遣会社に勤務したこともあった。一時は、風俗営業店に勤めたこともある。その理由は、肉体労働ではなく、ヘルニアでも仕事ができたためだった。その間も、いつかまた料理を作りたいと考え、昼の仕事を探していた。
 このあたりで、面会終了が、刑務官から伝えられる。私は、伊藤にまた来る旨を伝え、面会室から退出した。伊藤は嬉しそうな笑顔を浮かべながら、手を合わせ、「ありがとう」と何度も礼をしていた。

 東京拘置所に出かけたところ、偶然に『長野の会』の代表とばったり出会った。代表は、面会受付の前の辺りの椅子に座っていた。暫し、どこかで見た顔だと思い、相手の顔を見つめていた。代表も、一瞬私だと解らなかったらしく、あっけにとられたような表情で私の顔を見ていた。
 少ししてから互いに挨拶をし、私は「伊藤さんに面会に来ました」と拘置所に来た理由を伝える。代表は急いで、一緒に面会できるように手続きしてくれた。代表も伊藤に面会に来ていたのだ。私の少し前に拘置所に到着し、手続きを済ませたところだった。拘置所の収容者は、家族や弁護士以外では、一日に一回しか面会ができない。もしも来る時間が少しずれていれば、私たちの内どちらかは、伊藤と面会できないところだった。まさしく間一髪だ。拘置所も人手不足なのはわかるが、面会のある収容者ばかりではない筈だ。収容者の面会可能回数をもう少し増やしても、今の職員数でやっていけるのではないか。
 
 伊藤は、すっかり日焼けしていた。私たちが二人で面会したので、驚いている様子だった。偶然一階で出会った、と代表が伊藤に事情を伝えた。
 挨拶が済んだのち、伊藤は、今は縄跳びに凝っていることを話し始めた。二重跳びにチャレンジしており、跳べた回数を日毎にグラフにして書き出していた。エクセルで作ったような、精密な棒グラフであり、色分けされて書かれていた。代表も私も、まるでコンピューターで作ったようだと感心した。伊藤は一審時、体重は68キロだったが、今は当時よりも体重が減っているらしい。運動の成果かもしれない。すっかり日焼けしたのも、晴れた日には、必ず運動場に出るからだ。
 最近は伊藤のもとに、『長野の会』のメンバー以外からも、手紙が来るようになった。おおむね、死刑廃止論者ではないけれど、死刑は厳しい、理不尽であると感じている人からのようだ。「同じ状況なら、自分もやっていたと思う」という内容もあるとのこと。二審段階では、被告たちの減刑嘆願署名は、1000筆ほど集まっていた。死刑事件の被告には珍しい、同情と共感。それは、被告たちがいかに常軌を逸した犯罪被害を受けていたか、という証左でもある。
 
 私が『ジェイン・オースティン料理読本』と『The Little Prince』(注・星の王子様)を差し入れたことを伝えると、嬉しそうに礼を言った。『料理読本』については、料理に興味があったため、かねてから読んでみたいと思っていたとのことだった。
 代表が差入の話をすると、伊藤は、食べ物では牛乳、南京豆、蜂蜜を頼んだ。お菓子については、何でも構わないが、ワサビ味の煎餅だけは勘弁してほしい、と答える。負担をかけてしまっているという思いからか、申し訳なさそうな表情である。
 面会終了が伝えられ、私たちは面会室を出て行った。伊藤は、うれしそうな笑顔を浮かべ、私たちを見送っていた。

 2014年7月2日、東京拘置所にて伊藤和史と面会をした。
 以前面会してから3か月ほど間が空いてしまったが、伊藤は変わらず元気そうだった。やせ気味の顔にうれしそうな表情を浮かべ、私を迎えてくれた。夏だからか、袖をまくりあげた半袖シャツ、短パンという格好だった。
 しかし、笑顔は長く続かなかった。この日の最初の話題は、松原の上告審弁論だったからだ。伊藤は5月中に今村弁護士から、弁論期日について教えてもらっていた。それ以来、伊藤も松原の裁判の行方を気にかけていた。
 「松原さんの減刑嘆願のことを、ずーっと考えていたんですよ」
 ふと、言葉に関西弁のアクセントが混じっているのに気付いた。伊藤は関西生まれだったが、長野に連行されてから、関西弁で話す機会がなかったらしい。法廷でも、関西弁を聞いたことはない。言葉のかすかな変化は、真島の家の呪縛から、精神的に解放されつつある兆しかもしれない。伊藤は拘禁されることで、かえって自由を得たのか。ならば、真島の家での生は、死刑囚としての生よりも自由がなく、恐怖に満ちていたということだ。
 伊藤は、話を続ける。松原を助けるために、自分も何かしたいと思っていた。そのために、動こうともしているようだ。
「池田さんにも、松原さんを助けようと手紙を出すつもりだったけれど、怒り出すかもしれないとも思うので、そっとしておこうと思います」
 それまでは、流暢にしゃべっていた。普段は人と話す機会が少ないため、面会では饒舌になる。しかしこの時は、視線を宙に彷徨わせ、しばし言葉を途切れさせた。話すべき内容は解っているが、それをうまく纏められない様子だ。言葉が見つからないのではない。感情が溢れ、言葉をうまく整理できない。そんな様子。
 しばらくしてから、伊藤は、言葉を続けた。
 「池田さんが、助かっている。松原さんが助かってくれたら、僕も気持ち的には助かります」
 私は、返す言葉が見つからなかった。松原は、食事を与えられない伊藤のために、実家から餅を持ってきたこともあった。真島の家での監禁中、そのような好意は身に染みただろう。信頼できると感じ、共に苦しんできた間柄だからか、伊藤は松原を犯行に誘ってしまった。松原の死刑確定を、自らの責任と感じているのか。
 「もしも二人とも確定してしまったら、二人の内、どちらかががんばらないと。松原さんは、あまり動きそうにないと思う」
 表情はやわらかかったが、声には切迫感が滲んでいた。伊藤の懸念は当たっているように思えた。松原は、裁判の時点から、自らの犯罪被害や事実関係について、言及することに消極的だった。面会をした支援者の話によれば、再審請求についても、消極的であるらしい。私自身、何とか説得できないかと思ったが、交流を絶たれている身では説得は不可能だろう。現在交流している支援者が、説得に成功することを、祈るしかない。
  「松原さんの命を、大切にしたい」
 伊藤は、私の目を見つめ、言った。私は、言葉を返すことができず、頷くしかなかった。
 私が松原にできることは、ただ祈ることだけだ。では、伊藤に対しては?

 松原についての話のあとは、伊藤の近況に話題は変わる。伊藤は最近、北九州連続監禁殺人事件について書かれた本を読んだらしい。その中で、無期懲役が確定したO・J受刑者と自分の状況が、似ているのではないかと言っていた。
 北九州連続監禁殺人事件とは、松永太死刑囚がO・J受刑者とともに、O・J受刑者の家族ら7人を殺害した事件である。被害者人数や残虐性もさることながら、松永死刑囚が通電などの拷問と脅迫でO・J受刑者と被害者たちを支配し、互いに殺し合わせた点で、常軌を逸した事件だった。O・J受刑者は、七人に対する殺人および傷害致死で有罪となったにもかかわらず、死刑を免れた。松永死刑囚の常軌を逸した虐待と拷問により、逆らえない精神状態であったことが考慮されたためだ。
 確かに、伊藤も、暴力と恐怖による支配から、限られた行動しかとることができなかった。心神耗弱こそ認定されなかったが、精神鑑定でも、それは認められていた。二人とも、精神的に強い拘束状態にあり、行動が制限され、事件へとつながった。その意味で、伊藤の精神状態はO・J受刑者に似ている。
 ただ私が思うに、O・J受刑者と伊藤には、一つの大きな相違点がある。伊藤は同じ立場にあった者たちと互いに殺しあわされたのではなく、自らを虐待する者を殺害した。北九州の事件で例えるのならば、O・J受刑者が松永死刑囚を殺害した、という場合に近いかもしれない。それを考えるとき、O・J受刑者と伊藤の刑責は、異なってくるのではないか。
 近況について話をするうちに、面会の終了が伝えられた。面会時間は15分程度か。あっという間に過ぎてしまった。東京拘置所は、ほかの拘置所と比較して、収容者が極端に多い。そのためか、面会時間は随分と短くなってしまうこともある。
「わざわざ足を運んでくれて、ありがとうございます」
「お体にお気をつけてください」
 伊藤は感謝の言葉を述べながら、何度も手を合わせ、礼を返してくれた。私はそれを見て、長い間連絡が取れなかったことを、申し訳なく思った。伊藤は、人と接触する機会が少ない。そして、松原の最高裁弁論が近づいている今こそ、最も誰かとつながりを持っていたいのかもしれなかった。
 『多弁は、不安の表れです』
 伊藤の精神鑑定を行った、証人の供述が頭をよぎった。
 私は、再会と手紙を出すことを約束し、礼をして面会室から退出した。扉が完全に閉まるまで、伊藤の姿を見つめていた。

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