伊藤和史獄中通信・「扉をひらくために」

長野県で起こった一家三人殺害事件の真実。 そして 伊藤和史が閉じ込められた 「強制収容所」の恐怖。

雑記

 ゼロ年代が戻ってきた。最近の性犯罪がらみの騒動や、岡口裁判官への罷免騒動を見て、確信を深めている。
 このブログは、伊藤(現姓辻野)和史をはじめとした、真島事件の被告たちを救済するために、はじめたものだ。今回の記事でふれる裁判長罷免キャンペーンは、伊藤たちの事件とは全く関係がない。しかし、伊藤たちを死刑へと追いやったものが、背後にあると感じた。

 ゼロ年代は、「被害者」「遺族」の絶対化と司法への関与強化、厳罰化が進行していった時代である。きっかけは、被害者や遺族への支援体制が皆無に近いことに、社会が気づいたことだった。しかし、それはきっかけであり、免罪符に過ぎない。犯罪の異常化・凶悪化という思い込み、犯罪の実態や刑罰の重さへの無知、矯正教育への無理解、「正義」への酩酊、「悪」を叩くことへの快感。これら無知と傲慢に基づいた、空っぽな快楽が、この時代を作っていた。
 この時代では、当然、「被害者」「遺族」への批判的言動は許されなかった。厳罰化や遺族団体に疑問を呈するものは、原田正治氏のような犯罪被害者遺族であっても、バッシングを受けた。その結果、伊藤たちの裁判が行われた2010年代には、「被害者」が犯罪を行っていても、批判すらできない社会に変貌していた。「被害者遺族」の政治的言動についても、何ら批判できない社会でもある。だからこそ、伊藤たちが「被害者」たちからうけた、強制労働、暴力、虐待といった犯罪被害は、量刑において何ら考慮されることがなかったのだ。
 今回の罷免キャンペーンからは、ゼロ年代に嗜まれていた、空っぽな快楽が透けて見える。

 2019年3月、名古屋地裁岡崎支部において、実の娘に対する準強制性交罪に問われていた被告に、無罪判決が下された。有罪率が高い日本においては、性犯罪も無罪となることは少なく、異例の判決である。しかし、異様な感を覚えたのは、この被告が被害者への性的虐待を実際に行っていたと認定されながら、無罪判決を下されたことだろう。
 認定の理由は、被告による暴行や、父子関係という支配されている環境が、被害者の抵抗を困難ならしめるほどのものとはいえない、というものだった。
 おぞましい実子への性犯罪であり、性的虐待を認定されたにもかかわらず無罪となった。それへの違和感自体は、十分に理解できる。私は、起訴された以前の性的虐待も、起訴することはできなかったのかと思う。そして、検察はより立証を工夫すべきだったと思っている。なにより、被害者に対しては心身のケアと、適切な医療が行われ、平穏な生活を回復できることを願っている。

 しかし、岡崎支部事件の虐待のおぞましさは、署名者たちの、不誠実、抑圧的な言動を何ら免除しない。
 
4月11日、女性たちが「無罪判決を許さない」として、日比谷でデモを行った。これは、上記の岡崎支部事件を含め、3月中に性犯罪に対して4件の無罪判決が相次いだことへの抗議だった。『性犯罪無罪許さない』というキャッチフレーズが、ツイッターで流された。また、ツイッター上では『性暴力の無罪判決の撤廃を求めるデモに来ました!!』『これ以上の無罪判決は許さない』といった言葉が乱れ飛んでいた。
 もちろん、判決に異を唱える権利はある。私も、伊藤たちの判決をさんざん批判している。しかし、それは公判を傍聴し、裁判記録を見た上でのことだ。このデモに参加した人々が、4つの事件の判決文全てを精査したという話は聞かない。また、岡崎支部事件以外の判決は、被告人の故意が否定されるか、犯罪事実そのものが否定された事案だった。虐待が実際に行われていた名古屋支部事件と、他の3事件の差を意識していたようにも思えない。
 そして、4月12日には、無罪判決を下した鵜飼祐充裁判長を罷免するための署名キャンペーンが行われるに至った。
 キャンペーンの主導者は、理由として以下のようなものをあげている。
『これほどまでに事実認定しながら法の適用に対して人としての「常識」「公序良俗」からかけ離れて「無罪」とした判決』
『これはまた国民にとって「精神的苦痛」を与えられている行為であります』
 何とも主観的な理由だ。「常識」「公序良俗」とは、誰の?また、これらは、裁判官のいわゆる「経験則」とも違うであろう。事実認定、法律適用がそのような曖昧なものに則って行われて良いはずがない。国民が「精神的苦痛」を抱いたとしても、それは判決とは何ら関係がない。
 この署名は5000人を目標とし、4月14日現在、4千数百人が署名を行っている。
 これの何が問題か?

 第一に、裁判官が無罪判決を出すことに委縮してしまう可能性が高い。
 日本の刑事裁判は、有罪率の高さで知られている。性犯罪も、99%以上が有罪である。被告人が無罪となるのは大変な事であり、よほど証拠が乏しい、あるいは検察の証拠が信用できないということでもある。無罪判決は、軽々しく下されているものではない。このような状態で「無罪判決を許さない」となれば、起訴された人間は絶対に有罪にすべきというに等しい。
 無罪判決を出すたびに、デモをされ、罷免を請求されるのであれば、裁判官は委縮せざるを得ないだろう。冤罪は増え、再審は完全に有名無実となる。
 
 第二に、「被害者」の絶対化がより強化されることである。
 ゼロ年代の空気は、被害者の犯罪・反道徳行為に批判を許さず、政治的言動への評価も許さないという点で、不合理かつ抑圧的なものであった。刑罰の実際の運用、犯罪発生率の推移、殺人の場合は酌量の余地のある事件が多いといった、最低限の知識さえも持ち合わせない人々により、熱狂の赴くままに議論が行われていた。しかし、それは裁判官の独立、三権分立、罪刑法定主義、というコップの内で行われていた。厳罰化を求める「あすの会」は、このコップを自分に都合の良い形にしようとしていた。しかし、事実認定の点には、なかなか手が出せなかった。今回の騒動は、そのコップ自体を粉々に粉砕するだろう。世論の熱狂を背景に、事実認定の在り方、法律の適用さえも動かそうとしているのだから。
 結果、情状面の認定だけでなく、事実認定までが、被害者の主張に沿わねばならなくなる。それは極めて不合理であり、冤罪を続発させるであろう。事実認定は客観的であるべきであり、被害者感情が触れて良いものではない。もちろん、「被害者」が被告にどれほど非道な行為を行っていても、情状として一顧だにされない傾向はさらに強まるだろう。
 今回の岡崎支部の判決について、「尊属殺人違憲判決事件」が引き合いに出される。実父から長期にわたり強姦された娘が、耐えかねて父を殺した事件だ。懲役3年6か月が求刑され、執行猶予の判決が確定した。「被害者」である実父の非道さは最高裁をも動かした。死刑か無期しかない尊属殺人という条文を、違憲として廃止させることにつながった。これは、「被害者」である実父の性的虐待という犯罪を、批判することにより、実現したものである。
 ゼロ年代以降の「被害者」が批判できない社会では、この娘を執行猶予にすることなどできなかっただろう。せいぜい、懲役15年に減刑する程度が精いっぱいだったのではないか。伊藤も松原も、性的被害は受けていなかったが、この娘よりもさらにひどい暴力と犯罪被害を受けていた。それにもかかわらず、考慮されることはなかった。
 今回の騒動の主導者やシンパたちは、「尊属殺人違憲判決事件」の娘に、同情的な言動をとっている。しかし、今回の騒動は、この娘のような被告人に、重刑を与える結果となるだろう。
 事実は不明であるが、4月11日のデモに参加した人の中には、性犯罪被害を受けた人がいるとのことである。なので、付言しておく。
 犯罪被害という「不幸な過去」を持つ人々であっても、その言動が批判や評価の対象となるのは当然のことだ。そして、行為にも責任を持つべきである。「犯罪被害者」という立場は、その人の言動を何ら正当化しない。

 第三に、検察官の権限強化、政治の司法への介入へとつながる。
 「被害者」とされる人間の証言を疑ってはならない、というのであれば、それは裁判官が「被害者」、ひいては検察の手下になれということである。検察官と被害者の主張は基本的に一致しており、被害者の主張に追従するということは、検察官に追従するという事でもあるからだ。当然、裁判官は検察側と被告側の主張のジャッジとしての役割を果たすことなどできない。
 また、求刑を下回る、あるいは無罪判決を下すたびにデモや罷免要求が行われるのであれば、政治家がそれを利用して、裁判官に圧力をかけようとすることも当然に考えられる。あるいは、政治家がそうしたデモや罷免要求を扇動することすら考えられる。当然、司法権の独立は損なわれる。
 「反権力」を主張しながら、この度のキャンペーンを擁護する人々は、そうした危険性を考えたことがあるのか?

 第四に、冤罪被害者へのさらなる抑圧へとつながる。
 冤罪被害者は、無罪が確定したのちも、「実はやっているのではないか」という差別に満ちた視線にさらされている。「無罪判決は許さない」というスローガンが正義として定着すれば、偏見が余計強まることは想像に難くない。

 これらの懸念について、キャンペーンの主導者たち、あるいはそのシンパたちは、何ら考えていないように見える。荒海の中で国民がしがみついている、「司法」という頼りないボートに、正義に酔いしれ、自らの言葉にシビレながら、穴をあけているのだ。
 21世紀になってから、あまりにも多くの物が壊された。来たる20年代は、何が壊されることになるのだろう。

 伊藤和史の上告審判決期日が、4月26日15時に指定された。

 今村弁護士から、「長野の会」に連絡があった。私は数日間メールをチェックしておらず、ついさっきそれを知った次第だ。
 もはや、何も言いたくない。一月に満たない期間で判決が出るのだから、当然上告棄却だろう。
 裁判所はこの数年間、何を見て、何を聞いてきたのか。
 私は二度と、検察や裁判所の正義など、信じることはない。

 司法官僚たちは、自らの犯罪に失敗し、反撃を受けたという理由だけで、その罪をすべて消し去った。そして、伊藤や、金父子から被害を受けた人々の傷や苦しみに目と耳をふさぎ、伊藤たちを死に追いやったのだ。

 先月の2016年1月26日、高橋明彦という被告の最高裁弁論が行われ、3月8日に判決期日が指定された。
 名前を聞いて、事件を思い出す人もいるかもしれない。2012年7月26日に発生した、福島夫婦強盗殺人事件の犯人である。同人の事件を担当した裁判員の一人は、「裁判員として現場写真を見たことで、PTSDとなった」として、民事訴訟を提起した。私は高橋の控訴審を傍聴に行ったが、普段はまばらな仙台高裁の傍聴席は、半分ほど埋まっていた。民事訴訟が大きく報道されたためか、事件自体についても、多少は知られるようになったようだ。
 今回、私がこの事件のことを書いたのは、PTSD訴訟に着目したからではない。その審理期間の短さに、驚いたのである。
 高橋の事件について、時系列に沿って書くと、以下のようになる。
2012年7月26日・・・事件発生
同年8月17日・・・高橋を起訴
2013年3月14日・・・福島地裁で死刑判決
同年11月28日・・・仙台高裁で控訴審初公判
2014年6月3日・・・仙台高裁で控訴棄却
2016年1月26日・・・最高裁で弁論
同年3月8日・・・最高裁での判決。
 おそらく、上告は棄却されると思われる。死刑事件において、起訴から3年数か月で上告審判決まで出てしまうというのは、あまりにも短すぎはしないだろうか。
 ましてや、弁護人たちは、「裁判員がPTSDに罹患しているにもかかわらず、漫然と裁判を進めた」として、訴訟手続きの違反があったと主張している。このような重大な論点を含んでいるにもかかわらず、ひときわ早く、最高裁で判決が出されることになる。
 
 以前、裁判員制度下の平均的な死刑事件上告審期間は、2年数か月となるのではないか、と書いた。しかし、それなりに争点のある被告である、高橋の上告審審理期間は、およそ1年9ヶ月程度である。これからは、争点の少ない事件では1年数か月となってしまうのではないか、と今は考えている。
 およそ10年ほど前は、争点の少ない死刑事件であっても、最高裁の審理には4年以上の時間が割かれるのが普通であった。今のスピード好みから考えれば、同じ国の話とは思えない。

 また、石巻殺傷事件の少年被告人、C・Yの最高裁弁論も、2016年4月25日に指定された。
 少年死刑事件の上告審期間は、長くなるのが通例であった。1992年に発生した市川市一家四人殺害事件のS・Tは、控訴審判決から上告審判決まで5年5ヶ月の審理期間がとられている。また、1994年に発生した連続リンチ殺人事件では、少年三被告の審理期間も、同じく5年5ヶ月である。
 しかし、石巻事件の控訴審判決は、2014年1月31日。控訴審判決から上告審弁論までの期間は、2年3ヶ月にやや満たない程度である。少年であっても、量刑の選択にあたって、熟慮を重ねる時間は特に設けないということか。

 不幸なことに、近年において死刑求刑される事件は、被告人が人間的に救いようがなく、動機に一片の酌量の余地のない事件ばかりではない。その極端な例が、真島事件である。時間をかけさえすればよい結論が出るわけではないだろうが、短時間での結論は、熟慮とは程遠い。

 刑事訴訟法411条は、上告が認められる場合として、「著しい量刑不当」を定めている。懲役刑の事件では、これに該当するとして刑を減軽された例が散見されるし、死刑判決が下された事件であっても、減軽事例はゼロではない。
 たとえ争点が量刑面である事件でも、刑の妥当性を詳細に検討する時間を設けて、しかるべきではないのか。

~追記~
 浅山克己被告の最高裁弁論期日が、2016年4月15日に指定された。
 浅山は、交際相手にストーカーを行い、その家族三人を殺害した。一審、二審ともに死刑判決を受けており、控訴審の判決日は2014年10月1日である。
 控訴審判決から弁論までは、1年半しか経過していないということだ。判決は5月か6月。事件の内容や審理期間の短さを考慮すれば、上告棄却の可能性が、極めて高い。
 二件も続けば、例外とは言えないであろう。やはり争点の乏しい事件では、上告審判決まで1年数か月という期間がスタンダードになるようだ。

 私事多忙のため、更新が滞りがちとなってしまっている。これは、本来であれば今年の初めには書かれているべき記事であった。伊藤や関係者には、申し訳ない次第だ。

 ご存知の方も多いかもしれないが、伊藤和史の最高裁弁論期日が、指定された。
 2016年3月29日である。
 判決は、4月の末か5月上旬ぐらいだろう。控訴審から上告審判決まで、およそ2年2か月。松原よりも、さらに早い判決となる。
 減刑となることを期待したいが、これまでの状況を見るに、とても期待することはできない。何をするべきか、とても思いつかないのが正直なところだ。
 これからは、再審請求を行っていくしかないのだろうが、果たして私は確定後も伊藤と交流を持つことができるのだろうか。伊藤は交流を申請してくれるようだが、東京拘置所が許可を出してくれるかは不透明である。

 2月15日の面会日、伊藤は笑顔だった。
 しかし、内心では死と、それまでの孤独を受け入れる決意を固めていた。身辺を整理し、家族との縁を切るべきではないかと考えているようだった。
『僕のことは忘れて、幸せになってほしい』
 家族について、何度もそう口にしていた。確かに、死刑が確定してしまえば、伊藤は家族のもとに帰ることはできないだろう。伊藤の内妻たちは、これまで伊藤を支えてきた。しかし、伊藤の死刑が確定すれば、死刑囚を身内に持つ苦痛ばかりではなく、帰ることのない夫を待つ現実も、のしかかってくる。それが、伊藤には耐えられないようだ。
『悪いことをした自分が悪い』
 伊藤は、幾度もその言葉を繰り返した。私は、それを耳にするたびに、不条理を感じた。確かに、伊藤の行為は法に反しており、無罪とは言えない。しかし、伊藤を搾取し、傷つけ、死さえも考える心境にさせたのは、金父子たちの犯罪行為である。
 「逃げればよかっただろう」と、裁判官や裁判員、検察官は、得々と判決や論告で述べていた。もちろん、家族にどのような不幸や犯罪が降りかかろうが、構わないというのであれば、逃げることはできた可能性はある。裁判官・裁判員諸氏であれば、法を破るよりも、家族の不幸や死を選んだのかもしれない。
 しかし伊藤にとって、内妻たちは初めて持つことのできた、大切な家族だった。自分自身の命より、大切に思っていたかもしれない。そのような人々を切り捨てて逃げることなど、できなかったのだ。
 付け加えれば、金父子の徹底的な監視や追跡により、逃亡が成功する可能性は、ゼロではないにせよ相当程度低かった。つまり、伊藤の「逃亡」することへの期待可能性、殺害を行わない期待可能性は、金父子たちの犯罪行為自体が、低下させていたのである。 
 
 私が面会室を出るとき、伊藤は、いつものように笑顔で手を合わせていた。
 この笑顔を、あと何回見ることができるだろうか。

 2014年9月2日、松原智浩の上告が棄却された。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140902/trl14090215520003-n1.htm
 
2014.9.2 15:52
 長野市で平成22年に一家3人を殺害するなどしたとして、強盗殺人罪などに問われ、1、2審で死刑とされた水道設備工、松原智浩被告(43)の上告審判決で、最高裁第3小法廷(大橋正春裁判長)は2日、被告側の上告を棄却した。死刑が確定する。1審は裁判員裁判で審理されており、国民が関与した死刑判決について最高裁が判断するのは初めて。

 今年7月末現在で、裁判員裁判で死刑が言い渡されたのは21人で、3人が控訴を取り下げ、1人が上告を取り下げてそれぞれ確定。松原被告を含めた14人が上告していた。

 同小法廷は、共犯に問われた伊藤和史被告(35)が「犯行を主導した」と認定。松原被告は「2人の殺害に自ら手を下し、伊藤被告の相談相手となるなど、本件の遂行にあたって重要で必要不可欠な役割を果たした」と指摘し、死刑とした1、2審判決を支持した。

 判決によると、松原被告らは22年3月24日、建設業の金文夫さん=当時(62)=宅で、金さんと長男夫妻の首を絞めて殺害。約416万円を奪い、遺体を愛知県西尾市内に埋めた。

 1審長野地裁の裁判員裁判判決は23年4月、「刑事責任は誠に重い」として死刑を選択。24年3月の2審東京高裁も支持した。

 共犯者のうち、伊藤被告は1、2審で死刑とされ、上告中。池田薫被告(38)は1審の死刑判決を2審が破棄、無期懲役とし、被告側が上告している。
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 なお、この産経新聞の記事には誤りがある。松原の一審判決年月日は、平成23年3月25日が正しい。

 私は、最高裁判決を傍聴に行かなかった。
 最高裁の公判には、被告人は出廷しない。つまり、傍聴することで被告を勇気づけることも不可能だ。最高裁の判決公判は、まさしく判決を甘受するだけの場である。
 最高裁の判決文は、「三行半」とも仇名される、短く簡単なものであり、朗読は数秒で終わると予想できた。開廷から数秒後には、失望と怒りを沈殿させ、法廷を後にすることも。
 何一つできず、心に毒を注がれるだけならば、最初から行かない方がましである。 
 少し経てば、裁判所のHPで松原の最高裁判決が公開される筈だ。最高裁判決への感想は、それを待って書きたいと思う。
 とはいえ「三行半」であるから、その内容は新聞記事のつぎはぎと大差ないものかもしれない。
 
 私が伊藤和史を支援するようになったきっかけは、松原の控訴審傍聴と面会である。「長野の会」の代表も、松原との交流が、真島事件被告への支援のきっかけとなった。いわば、松原の存在が、支援運動の起点になったと言える。
 松原は被害者たちを殺害したことを非常に悔いており、「正直、恐ろしいけれども、死刑を受け入れるつもりです」と被告人質問で答えていた。被害者たちからの犯罪被害。死刑への恐怖。それらをすべて受け入れ、死をもって責任を取るべきだと考えていたようだ。上告したのは、弁護人の熱意ある説得と、家族のことを考えたからではないか。
 支援活動が始まった当時、事件の真相は十分に明らかになっていなかった。伊藤の公判はいまだ開始されておらず、松原の一審弁護人は事件の真相に、裁判であまり言及しようとしなかった。このような状況であるにも関わらず、支援運動は少しずつ広がっていった。
 松原の人柄があったからこそ、彼が遠慮がちに語る事件の真相は、人々に受け入れられたのである。
 
 松原は、大人しいが、仕事や対人関係などの責任感が絡む局面では、意志が強い。だからこそ、「被害者」たちの犯罪行為に、黙々と耐えていた。家族以外とほとんど交流を持たず、死刑を受け入れる姿勢も、そのような意志の強さの表れだろう。
 今回は、その責任感は、「死刑を受け入れる」という形で表れている。だからこそ、現状では再審請求に消極的だと思われる。
 しかし、どうか家族や弁護人の説得に、折れてほしい。意志の強さを、今この時だけは、曲げてほしい。

 松原の死刑が執行されないこと、生きて拘置所の外に出られることを、心から願っている。 

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