伊藤に加えられた恫喝と暴力は、肉体と精神を傷つけただけではない。その外見にも、大きな変化を生じさせていた。
信濃毎日新聞には、伊藤の写真が掲載されている。やや太り気味の、恰幅のいい青年だ。丸顔に満面の笑みを浮かべており、表情からは穏やかさと、積み上げてきた人生に相応の自信が感じられる。この写真は、伊藤が大阪に住んでいた時代に撮影されたものであり、宮城に監禁される以前のものである。
私が伊藤を始めて見たのは、2011年12月に行われた、長野地裁の裁判員裁判だ。その時の姿は、アウシュビッツに収容されたユダヤ人を、彷彿とさせた。
体は枯れ枝のように細く、肌は土気色であり、頬はこけていた。表情は暗く、瞳には不安がよどんでいる。未だに、監禁時の苦痛と苦悩が離れないようだ。歩き方は力がなく、瀕死の病人のようだった。少しでも触れれば、体がぼきぼきと折れ砕け、崩れ落ちそうに思えた。
私は、目の前の人物が写真と同じ人間であると、暫しの間、信じられなかった。一審公判時の伊藤は、逮捕から1年8か月ほど経過している。真島の家での暴力と恐怖から解放され、体重を取り戻す時間は、十分にあった。それにもかかわらず、未だ真島の家に拘束されているかのように、弱り、怯えている。長野地裁に心理鑑定人として出廷した森武夫氏によれば、このような状態であっても、心理鑑定時よりは元気になったとのことである。逮捕直後は、どれほどひどい状態だったのだろうか。想像することができなかった。
実際に、体重の変化も、著しいものがあった。
伊藤の体重は、金父子に拘束され、長野県で生活させられるようになった2008年10月には、93キロあった。服のサイズは5L、ウェストは1メートルだった。しかし、2010年4月に逮捕された直前には、体重は72キロ、服のサイズはLL、ウェストは86~88センチだった。
2013年5月30日に行われた第二回控訴審公判では、伊藤がアプリで記録していた体重の数値が調べられた。2009年3月20日から2010年3月20日までの1年間で、始めが86.8キロ、終わりが72キロとなっていた。外見の変化、体重の変化、ともに法廷に証拠が提出され、証明が成されているのである。
異常なまでの体重の変動の原因は、死と暴力への恐怖、絶え間なく与えられたストレスであろう。日中と夜間に働かざるを得なかったことによる過労、3時間程度しか睡眠が取れなかったことも、もちろん原因に違いない。
体格の変化は、真島の家に来てからの方が激しいようだ。宮城と金父子の犯罪行為の、どこが違ったのか。以下の理由が考えられるかもしれない。
宮城は死に直結しかねない暴力を加えていた。しかし、金父子もヘルメットの上からハンマーで強く殴る、袋叩きにする、といった十分に酷い暴力を加えていたのである。金父子は刃物を使わなかっただけであり、肉体的暴力による苦痛と恐怖は、宮城も金父子も大差ないのではないか。
そして当然ながら、伊藤は宮城に捕らわれていた時には、まだ殺人を目の当たりにしていない。殺される恐怖は、良亮の殺人を目撃した後の方が、現実性をもって迫ってきたのではないか。金父子も、その恐怖を最大限に利用し、伊藤を精神的に拘束した。
加えて、金父子は宮城に比べて力を持っており、逃げた人間を長野から関東、関西にわたり、追い詰めることのできる権力を持っていた。
また、宮城に捕らわれていた時には、伊藤は妻子と離ればなれにされていなかった。プライベートな時間の制限も、真島の家の方が酷かったようだ。伊藤は、家族のもとに帰らせてもらえず、休日も金父子や楠見の遊興のアシとして使われていた。鍵のかからない部屋に住まわされ、行動を逐一報告させられていた。他者との隔離と、行動の事由の徹底的な剥奪は、孤独と無力感を与えただろう。
地裁の審理では、裁判官は真島の家での傷について「出血したのか」と執拗に尋ねた。裁判所は、出血の有無などの目に見える傷に被害を限定しようと、非常に努力されていた。加えて、地裁も高裁も、金父子の暴力を宮城のそれと比べて、矮小化しようとしていた。しかし、伊藤への暴力は、肉体的な被害に限定されるべきなのだろうか。
2013年7月16日の控訴審公判で明らかにされたことであるが、『文夫さん、良亮さんの操り人形になっているという思いでした』と伊藤は供述調書で述べていたことがある。この感覚について、同日に行われた被告人質問で、伊藤は以下のように答えた。
「文夫さんと良亮さん、僕はその世界を拒否しているんですけど、体は、暴力により服従してしまっているという状態です」
また、同じく調書で、『操り人形になると思うと、身も心も、もたない思いでした』と述べている。手短ながら、精神的拘束による無力感と、苦痛、恐怖について述べているのではないか。この言葉の趣旨についても、短く被告人質問が行われた。伊藤は、次のように答えた。
「肉体的、精神的に限界なのか、超えているのか解りませんが、そういう状態でした」
このような精神状態から、伊藤は心理的視野狭窄に陥り、事件へとつながった。伊藤の犯行時の行動だけではなく、実質的にどれほどの被害を被ったかについても、精神的拘束を併せて考えなければ、理解できないのではないか。
真島の家では、強烈な暴力に、死の恐怖と徹底的な自由の剥奪、精神的拘束が加わった。それが、異常なまでの体格、体重の変化に現れているのではないか。
信濃毎日新聞には、伊藤の写真が掲載されている。やや太り気味の、恰幅のいい青年だ。丸顔に満面の笑みを浮かべており、表情からは穏やかさと、積み上げてきた人生に相応の自信が感じられる。この写真は、伊藤が大阪に住んでいた時代に撮影されたものであり、宮城に監禁される以前のものである。
私が伊藤を始めて見たのは、2011年12月に行われた、長野地裁の裁判員裁判だ。その時の姿は、アウシュビッツに収容されたユダヤ人を、彷彿とさせた。
体は枯れ枝のように細く、肌は土気色であり、頬はこけていた。表情は暗く、瞳には不安がよどんでいる。未だに、監禁時の苦痛と苦悩が離れないようだ。歩き方は力がなく、瀕死の病人のようだった。少しでも触れれば、体がぼきぼきと折れ砕け、崩れ落ちそうに思えた。
私は、目の前の人物が写真と同じ人間であると、暫しの間、信じられなかった。一審公判時の伊藤は、逮捕から1年8か月ほど経過している。真島の家での暴力と恐怖から解放され、体重を取り戻す時間は、十分にあった。それにもかかわらず、未だ真島の家に拘束されているかのように、弱り、怯えている。長野地裁に心理鑑定人として出廷した森武夫氏によれば、このような状態であっても、心理鑑定時よりは元気になったとのことである。逮捕直後は、どれほどひどい状態だったのだろうか。想像することができなかった。
実際に、体重の変化も、著しいものがあった。
伊藤の体重は、金父子に拘束され、長野県で生活させられるようになった2008年10月には、93キロあった。服のサイズは5L、ウェストは1メートルだった。しかし、2010年4月に逮捕された直前には、体重は72キロ、服のサイズはLL、ウェストは86~88センチだった。
2013年5月30日に行われた第二回控訴審公判では、伊藤がアプリで記録していた体重の数値が調べられた。2009年3月20日から2010年3月20日までの1年間で、始めが86.8キロ、終わりが72キロとなっていた。外見の変化、体重の変化、ともに法廷に証拠が提出され、証明が成されているのである。
異常なまでの体重の変動の原因は、死と暴力への恐怖、絶え間なく与えられたストレスであろう。日中と夜間に働かざるを得なかったことによる過労、3時間程度しか睡眠が取れなかったことも、もちろん原因に違いない。
体格の変化は、真島の家に来てからの方が激しいようだ。宮城と金父子の犯罪行為の、どこが違ったのか。以下の理由が考えられるかもしれない。
宮城は死に直結しかねない暴力を加えていた。しかし、金父子もヘルメットの上からハンマーで強く殴る、袋叩きにする、といった十分に酷い暴力を加えていたのである。金父子は刃物を使わなかっただけであり、肉体的暴力による苦痛と恐怖は、宮城も金父子も大差ないのではないか。
そして当然ながら、伊藤は宮城に捕らわれていた時には、まだ殺人を目の当たりにしていない。殺される恐怖は、良亮の殺人を目撃した後の方が、現実性をもって迫ってきたのではないか。金父子も、その恐怖を最大限に利用し、伊藤を精神的に拘束した。
加えて、金父子は宮城に比べて力を持っており、逃げた人間を長野から関東、関西にわたり、追い詰めることのできる権力を持っていた。
また、宮城に捕らわれていた時には、伊藤は妻子と離ればなれにされていなかった。プライベートな時間の制限も、真島の家の方が酷かったようだ。伊藤は、家族のもとに帰らせてもらえず、休日も金父子や楠見の遊興のアシとして使われていた。鍵のかからない部屋に住まわされ、行動を逐一報告させられていた。他者との隔離と、行動の事由の徹底的な剥奪は、孤独と無力感を与えただろう。
地裁の審理では、裁判官は真島の家での傷について「出血したのか」と執拗に尋ねた。裁判所は、出血の有無などの目に見える傷に被害を限定しようと、非常に努力されていた。加えて、地裁も高裁も、金父子の暴力を宮城のそれと比べて、矮小化しようとしていた。しかし、伊藤への暴力は、肉体的な被害に限定されるべきなのだろうか。
2013年7月16日の控訴審公判で明らかにされたことであるが、『文夫さん、良亮さんの操り人形になっているという思いでした』と伊藤は供述調書で述べていたことがある。この感覚について、同日に行われた被告人質問で、伊藤は以下のように答えた。
「文夫さんと良亮さん、僕はその世界を拒否しているんですけど、体は、暴力により服従してしまっているという状態です」
また、同じく調書で、『操り人形になると思うと、身も心も、もたない思いでした』と述べている。手短ながら、精神的拘束による無力感と、苦痛、恐怖について述べているのではないか。この言葉の趣旨についても、短く被告人質問が行われた。伊藤は、次のように答えた。
「肉体的、精神的に限界なのか、超えているのか解りませんが、そういう状態でした」
このような精神状態から、伊藤は心理的視野狭窄に陥り、事件へとつながった。伊藤の犯行時の行動だけではなく、実質的にどれほどの被害を被ったかについても、精神的拘束を併せて考えなければ、理解できないのではないか。
真島の家では、強烈な暴力に、死の恐怖と徹底的な自由の剥奪、精神的拘束が加わった。それが、異常なまでの体格、体重の変化に現れているのではないか。