伊藤和史獄中通信・「扉をひらくために」

長野県で起こった一家三人殺害事件の真実。 そして 伊藤和史が閉じ込められた 「強制収容所」の恐怖。

死刑問題

 7月6日、オウム真理教事件の七死刑囚が、死刑を執行された。
 そして、記事を書くのに手間取っている内に、小池泰夫、廣瀬健一、豊田亨、横山真人、端本悟、宮前一明の六人までも死刑執行されてしまった。
 小池は、地下鉄サリン事件の実行犯であり、松本サリン事件では幇助的役割を果たした。廣瀬、豊田、横山の三人は、地下鉄サリン事件の実行犯である。端本は、坂本弁護士一家殺害の実行メンバーであり、松本サリン事件では、噴霧車の警備を担った。宮前は、坂本弁護士一家殺害事件の実行メンバーであり、信者一名への殺害事件に関与している。
 このうち、豊田亨は、真島事件と袖が擦れ合った程度の縁がある。松原智浩の弁護を引き受けているのは、豊田の弁護人である、宮田桂子弁護士だ。松原は二回目の再審請求である。豊田の第一次再審請求中の執行にも怒っただろうが、松原の執行可能性が現実味を増したことで、戦慄したのではないか。
 私は、豊田の執行を聞いて、ぞっとした。法廷や拘置所で見た松原の顔が思い浮かんだ。伊藤に至っては、再審請求もできていない状況である。今年はさすがに、これ以上の執行はしないかもしれない。しかし、伊藤と松原の順番が迫ってきていると感じられてならない。来年9月で、松原は死刑確定5年目となる。

 話をオウム事件に戻そう。前回執行されたのが、麻原と、その位の高い「重鎮」(実質的には奴隷と大差なかったと思えるが)であったとすれば、今回の執行は、末端の実行犯である。中でも、端本は組織内で位が低く、重大事件に二回関与したとはいえ、下っ端の役割であった。それだけに、余計に割り切れなさを感じる。
 この6人は、7月6日に執行された幹部と同様、麻原によりマインドコントロールされ、搾取、利用される存在であったという事情がある。加えて、幾人かには、以下のような事情がある。
 横山は実行犯ではあったが、彼の実行行為により死亡した人数は0名である。地下鉄サリン事件実行犯の中で、唯一無期懲役が求刑された林郁夫は、実行行為により2名を殺害している。また、彼は他にも一人の死に関与している。その林と比較し、あまりにも差がありはしないか。また、この差は、一名の殺害実行にとどまる廣瀬、豊田にも当てはまる事情である。
 端本悟は、坂本弁護士一家殺害事件の実行犯とはいえ、グループ内での序列は最下位と言ってよかった。グループの指示役は、村井秀夫と早川紀代秀であり、弁護士夫妻の殺害を実行したのは新実智光、赤ん坊の殺害を実行したのは中川智正である。現場での行為は、坂本弁護士を殴打したなどであり、生命を奪う行為は行っていない。もちろん端本にも重い責任はあるが、実行現場で大して重要な役割を果たしていなかったと言えるのではないか。また、松本サリン事件ではサリン噴霧車の運転と警備を担ったが、サリン噴霧車の運転・警備のみに関与した被告たちは、懲役17年、18年といった量刑となっている。松本サリン事件と二件の殺人に関与したオウム幹部は、最後まで麻原に帰依し続けたにもかかわらず、無期懲役の判決であった。これらと比較しても、端本の量刑は重すぎるのではないかと思っている。
 宮前一明は、坂本弁護士一家殺害事件について自首が成立している。また、同事件では、指示役ではなく、殺害実行行為も、坂本弁護士に対して「首を後ろから押さえる」という一部を行ったにとどまり、直接的に生命を奪う行為といえるか微妙である。自首が遅かったという非難はあるだろうが、それでも真相究明に大きく貢献したことは間違いない。
 このように、末端の実行犯たちには、役割の評価という点においても、首をかしげざるを得ない点が多い。
 しかし上川法相は、これらの事情を考慮することもなく、あっさりと死刑を執行してしまった。

 もともと、この記事のタイトルは「残った六死刑囚に恩赦を」とするつもりだった。だが、法務行政の体質を考えると、それは無理な話だったかもしれない。戦後、個別の情状により、個別恩赦となった死刑囚は極めて少ないのが現状だ。そして、再審請求の権利すら踏みにじる法務行政と政権である。恩赦という言葉など、六法全書のシミぐらいにしか考えていないであろう。



 麻原彰晃をはじめとする、オウム真理教事件に関与した、7人の死刑囚に死刑が執行された。
 これを上回る大量執行は、大逆事件、二・二六事件まで遡らねばならないのではないか。あるいは、田中伊三次による、23名への死刑執行か。

 VSフォーラムはまたも声明を出しているようだが、死刑の積極的執行という「利益」のために、政権と行政の判断に、無批判に追従するものでしかない。特に言及しない。
 新実智光、中川智正、早川紀代秀、井上嘉浩、遠藤誠一、土谷正実、以上の六人の執行については、反対するし抗議する。オウム信者たちは、麻原による物的、心理的圧力、さらには薬物を使用したマインドコントロール下に置かれており、操られ、利用された側面が強い。北九州監禁殺人事件や角田美代子事件のように、そのような状況下で事件に関与した被告には、死刑が選択されていない事例も多い。執行された6名の幹部にも、そのような事情が考慮されるべきであった。
 中でも、中川、遠藤、井上は一度目の再審請求中に、死刑が執行されたとのことである。これは、行政の恣意的判断により、法律上規定された再審請求の権利を奪っているということだ。再審制度の実質的な有名無実化に他ならない。
 
 麻原彰晃の死刑執行そのものは妥当である。しかし、再審請求中とのことであり、裁判を受ける権利を行政が奪ったということで、違憲以外の何物でもない。また、受刑能力があったか否かが、気になるところではある。
 再審請求中の死刑執行について、その無法を指摘するのも疲れた。しかし、そのたびに、指摘し続けるつもりだ。
 それ以前に、安倍政権に、もはや死刑執行をする資格はないのではないか。かくも疑惑にまみれ、犯罪を行っている可能性もある政権。死刑という究極の刑罰の執行のためには、政府への信頼と、道義的正当性が必要不可欠だろう。それを欠いた政権に、死刑執行を行う正当性があるのか。なお、安倍政権の面々は、上川法相も含め、死刑執行の前日、酒宴に興じていたとのことである。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-07-08/2018070802_06_1.html
上川法相は6日の死刑執行直後の記者会見で、3日に執行命令書に署名したと説明しており、パーティー当時には翌日の執行を当然知っていたことになります。また、パーティー当日の夜には、西日本を中心に豪雨被害が出始めていました。
 ツイッター上では、豪雨被災中、死刑執行前夜のパーティーに興じた安倍、上川両氏らの行動に、「おぞましい」「『危機管理』が聞いてあきれる」などの批判が相次ぎました。


 麻原が極めて凶悪な犯罪者であったとはいえ、死刑執行を前に酒を飲んではしゃぐなど、スターリンとその取り巻きのような精神構造としか言えない。

 また、「オウム事件真相究明の会」は、大量の執行に対し、何ら動きを見せていないようだ。詳細は後ほど(いつになるか解らないが)書くが、率直に言って、同会の行動に信用できない印象を抱いている。そして、青木氏、雨宮氏、原田氏が名前を連ねているのは、残念に感じた。
 しかし、中でも一番不信感を抱いたのは、藤井誠二が名を連ねていることである。同人は、日垣隆という悪辣な詐欺師と組み、今年6月に解散した「あすの会」(VSフォーラムの母体ともいえる団体である)と二人三脚で、遺族の絶対化と厳罰化を推進した。いわば、真島事件の死刑の遠因を作ったと言っても過言ではない。
 そのような人間が、なぜ、多少なりとも麻原の擁護となる団体に、名を連ねているのか。森達也の人脈を生かし、何食わぬ顔でリベラル陣営に復帰しようと考えているのか。意図は不明だが、少なくとも、自分の言動の総括ぐらい、すべきではないか。
 なお、藤井自身も、2018年7月8日現在、死刑執行について何も発言していないようである。何か発言する義務もあるのではないか。
 
 日垣隆という人物と、その悪行については、こちらを参照。
 要約すれば、日垣は、弟の死について「少年犯罪者に殺された」と虚言を述べ、社会の同情と支持を得ていた。実際は、修学旅行中の事故死であった。また、新潮ドキュメント賞を受賞した『そして殺人者は野に放たれる』という本では、雑誌記事を剽窃して、自らの取材であるかのように装った。さらに、記事の内容を捻じ曲げ、統合失調症の殺人者が、収監先の病院では統合失調症と診断されていないかのように、虚偽の事実を記載した。
なお、日垣は「あすの会」と組み、パネリストとして登壇していたこともある。私自身、かつて2001年の集会を聴講し、その場面を目撃している。
http://www.navs.jp/report/2/event1/event1-3.html
パネルディスカッションは、諸澤英道(常磐大学学長)のコーディネートにより、渥美東洋(中央大学教授)、垣添誠雄(弁護士)、日垣隆(ジャーナリスト、作家、会員)を招き、岡村勲(代表幹事、弁護士)、本村洋(幹事)も参加して、ディスカッションを行い、会場の参加者との意見交換も行った。

 このような嘘つきが、被害者の絶対化、刑罰制度、ひいては社会の在り方を形作ったのである。
 
 今回の死刑執行に話を戻そう。私は、6人の幹部の執行には反対する。また、再審請求中の執行は、裁判を受ける権利を有名無実化するに等しいと考える。中でも、一度目の再審請求中での執行は、国が裁判を受ける権利の保障を侵害したものに他ならない。そして、犯罪疑惑にまみれ、死刑執行前日、大災害のさなかにもかかわらず、酒宴を開きはしゃぐような政府には、死刑執行を行う資格はないと考えている。

 次に、住田紘一の死刑執行について。
 住田死刑囚は、被害者に謝罪し、控訴を取り下げて死刑を確定させた。前科前歴もない。本当に死刑しかないといえたのか、疑問は残る。
 何ら罪のない人間を殺害したことは事実であり、遺族の処罰感情については、当然だと思うので、それについては特に書くことはない。
 ただ、気になった点が二つ。
 記事の内容からしか判断できないが、遺族の手紙などに返信しなかったのは、単に拘置所が連絡を許さなかった可能性もある。また、住田被告が「自分には死刑しかない」と考え、本人なりの反省として、外部をシャットアウトして死刑執行を受け入れることに専念したのかもしれない。遺族の言葉を「真実」とする根拠は、記事中の言葉には示されていない。
 また、遺族の永山判決や死刑適用の現状への理解について、無批判に報道していれば良いのだろうか。
 永山判決であるが、「被害者一名では死刑にしてはいけない」という内容ではない。その証拠として、21世紀になってからも、殺人前科なし死者一名の事件で、高裁で死刑判決が下されている事件は存在する。
 2004年10月29日には、女子高生誘拐殺人事件の坂本正人が東京高裁で逆転死刑判決を下されている。坂本は上告することなく確定した。
 2005年3月19日には、女性強姦焼殺事件の服部純也が高裁で逆転死刑判決を下された。服部は上告し、2008年に最高裁で上告棄却。
 2006年9月26日には、奈良女児殺害事件の小林薫に、奈良地裁で死刑判決が下され、控訴せずに確定した。
 2009年3月18日には、名古屋闇サイト殺人事件の神田司に、名古屋地裁で死刑判決が下され、控訴取り下げにより確定している。
 2011年3月1日には、横浜中華街店主射殺事件の熊谷徳久が、上告棄却され死刑が確定している。
 これらの死刑囚たちは、奇しくも全員がすでに死刑執行されている。
 住田以前の5人のうち、3人は高裁以上のレベルで死刑判決が支持されている。「死者一名では死刑になることはなかった」というのは誤導である。せいぜいが、死者一名の事件では死刑にある程度抑制的である、といえるに過ぎない。
 なお、住田死刑囚は、裁判員制度での三人目の死刑確定者である。松原智浩は、四人目の死刑確定者だ。真島事件の死刑囚たちの死刑執行が近づいてきたように感じる。

 最後に。全く報道されていないが、今回もまたVSフォーラムが死刑執行を支持する声明を出した。
 7月13日執行の声明
 その内容であるが、前回の田尻賢一の執行と、全く同じである。いや、一つだけ異なっている点があった。今回の執行人数として「2名」という文字を加えた点。それ以外は、全く前回と同一の内容である。
 前回の声明
 血の通わないテンプレートであり、「死刑執行」という、法の下に人命を奪う行為への、厳粛性や重大性にはそぐわない軽さと無機質さを感じる。死刑存置の立場にせよ、死刑執行の重大性への意識がここまで感じられないのは、法曹としていかがなものか。「今回の死刑執行に賛成」であり、法曹としてそれを意見表明するのであれば、より理を尽くして丁寧に説明を行うべきではないか。
 また、西川の死刑執行は、再審請求中に行われた。被害者擁護の立場に立つとはいえ、「裁判を受ける権利」との整合性に全く思いを致さない姿勢には、疑問を感じる。
VSフォーラムが死刑廃止に反対の立場だということは、すでに周知されている。また死刑執行の場以外にもいくらでも意見を述べる機会はある。死刑廃止論者、死刑囚の支援者、あるいは死刑囚の親族の傷口に塩を塗り込む以外に、特段出す意義のない声明と感じられた。

 7月13日、西川正勝、住田紘一の死刑が執行された。西川が再審請求中の死刑執行だったこともあり、今回の死刑執行は比較的報道されている印象だ。
 私は、今回の死刑執行について非常に驚いた。まさか、内閣改造による辞任(辞任せざるをえまい)ぎりぎりに執行をするとは思わなかったのだ。世間ではその強権ぶりで非難を浴び、辞任をあと二十日ほど後に控えている。「熟慮を重ねた」という決まり文句を垂れ流すが、本当にこのタイミングで、熟慮して執行する余裕があったのだろうか。
 今回の執行については書くべきことが多いので、いくつかに分割する。

 まずは西川正勝の死刑執行について。一件の殺人と三件の強盗殺人(本当の金目当ての殺人)で死刑が確定した。公判時から、強盗殺人三件については無罪を主張し、再審請求をしていたようである。
 彼は、再審請求中に執行された。再審請求中の死刑執行は、1999年に死刑執行された、長崎県老女殺害事件の小野照男以来である。そのほかには、1958年に、福岡で再審請求中の死刑執行があった。その死刑囚は無罪を主張して、再審請求を頻繁に行っており、同時期に死刑が確定していた免田栄さんは冤罪の可能性を指摘している。なお、西川には殺人前科があったが、小野にも殺人前科があった。それも、執行への心理的障壁を消したのかもしれない。もちろん、前科があったからと言って有罪ということにはならず、本来であれば有罪無罪とは分けて考えるべきものである。
 西川の訴えの通り無罪であれば不当な執行と言えそうだが、本当にすべての事件で有罪であったのならば、死刑執行は仕方なかったかもしれない。
 西川が有罪であるならば、再審請求中に執行されたこと、金田勝年により執行されたことを除いて、特に思うところはない。

 第一に、再審請求中の死刑執行について。
 これには、三つの問題があると考える。
 一つ目の問題。再審請求中の死刑執行が、冤罪者の救済を不可能にする行為であることは、言うまでもない。
 免田事件、島田事件、松山事件で警察・司法の被害にあった人々、冤罪者たちは、何十年間も再審請求を行い、漸く無罪が認められた。再審請求中に執行がされていれば、当然ながら冤罪は闇に葬られただろう。「再審請求中の死刑執行」を是認することは、そのような事態の是認にも繋がりかねない。仮に、西川の再審請求が根拠ないものであれば、またもや速やかに棄却されたであろう。再審請求の棄却を待って死刑執行しても、特に問題ないのではないか。

 そして、二つ目の問題。これは、あまりピンとこないことかもしれない。再審請求中の死刑執行は、検察庁による司法権の侵害ではないか。
 再審請求中の死刑執行は、法務省が再審請求を強制的に打ち切ることに他ならない。つまり、実質的に法務省という行政が司法に介入し、死刑囚の有罪無罪を判断しているに等しい。もちろん、再審請求に判断を示すのは、裁判所という司法の役割である。
 その点は誰も言及しないが、司法権の根幹を揺るがしかねない問題ではないのか。
 検察官がどう絡んでくるのか?と考える方もいると思うので、先を急ごう。
 まず、法務省における法務大臣の役割は、金のかかる看板に堕している。そして、法務行政を実質的に支配しているのは、検察官である。
 死刑執行命令書に公印を押しているのは、事務方である。法務大臣は、「死刑事件審査結果」という書類に判を押すだけだ。このように、命令書に判を押さないことで、責任者である法務大臣が、なるべく責任を軽減されるシステムになっている。また、死刑執行の上申を行うのは、法務官僚と検察庁である。
 そして、「法務官僚」とはいうが、その実態は検察官である。
 例えば、現在の法務省事務次官である黒川弘務は、元検察官である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B7%9D%E5%BC%98%E5%8B%99 
 1983年に検察官に任官し、東京、新潟、青森などの検察庁に勤務した。歴代の多くの事務次官も、検察官出身者である。また、法務省最高幹部の大半は、検察官出身者である。
 法務省の事務方最高位である事務次官は、検察庁内部では№4程度の地位でしかなく、検事総長への出世の足掛かりに過ぎない。
 例えば、現在の検事総長である西川克行は、事務次官を歴任している。
http://www.moj.go.jp/keiji1/kanbou_kenji_01_index.html
 検察庁は行政庁、しかも法務省という行政庁の一機関でしかない。しかし、その検察庁が本体である法務省を牛耳っているのである。このこと自体、不思議な状況だが、死刑執行ともなれば一層、不思議な状況となる。死刑を要求した検察庁が、自らの要求を「正当である」と太鼓判を押して、死刑執行しているのだから。囚われた泥棒に、牢屋の鍵を渡すようなものではないか。
 7月13日付の毎日新聞の記事では、西川の死刑執行について、『同省(注・法務省)幹部は「執行を避けるための形式的な請求が繰り返されているケースもある」と指摘する』と、「法務省幹部」の談話を紹介している。この法務省幹部は、検察官である可能性が高い。本人が検察官でなくとも、法務省を支配する検察の意向を汲んで、談話を出していると考えられる。記事の見出しは、『「再審請求、形式的」法務省』となっているが、『「再審請求、形式的」検察庁』と書いた方が、正確である。この談話は、検察官(ないしはその代弁者)が「検察が獲得した死刑判決は正しい!」と言っているだけであり、公正な立場からの、信頼性のある発言とは言えない。毎日新聞は、法務省内での検察の権力、死刑執行への関与は知っている筈である。読者に正確な情報を提供したいと考えているならば、そうした内情も併記すべきではないか。 
 検察官が権力を振るっているのは、法務省の内部だけではない。本来の権限として、警察を指揮監督し、起訴権をほぼ独占し、裁判の執行を指揮し、求刑を行う権利を持っている。この求刑を通し、裁判の量刑にも、大きな影響力を持つ。有罪となれば、多くの場合、量刑は検察官の求刑に近くなるからだ。死刑求刑となれば、下される判決は軽くても無期懲役である。
 およそ酌量の余地のない事件ばかり死刑求刑されるのであれば、それでも問題ないかもしれない。しかし、光市事件判決以後は、そうではなくなっている。
 伊藤和史の共犯者である池田薫も、控訴審で減刑されたものの、無期懲役にしかならなかった。また、幼いころに自分に性的虐待を行った男性を殺害、その両親も予期せず殺傷したI・H被告も、「被害者の性的虐待によるPTSD」が検察官による精神鑑定で立証されたにもかかわらず、無期懲役にしかならなかった。現代において無期懲役とは、少なくとも30年は服役せねばならない。死刑求刑の果ての無期であれば、服役期間はより長期化する可能性が高い。
 検察官の求刑は意見に過ぎず、それに沿わねばならない法的根拠はない。それにも関わらず、量刑面についても、検察官の意見が大きく影響を及ぼしている。判決内容についても、検察官は大きな影響力を振るっているのだ。
 再審請求中の死刑執行は、検察官である法務官僚が、再審請求への判断を行っているに等しい。三権分立の侵害であり、検察官に司法の支配権を許す行為である。
 安倍総理は、「行政と立法の長」だそうだ。しかし、再審請求中の死刑執行が認められることにより、検察庁は「法務行政と司法」の支配者となるのである。

 三つ目の問題点。再審請求中の死刑執行は、憲法で保障された裁判を受ける権利を、奪うものではないか?
 刑事訴訟法442条には、『再審の請求は、刑の執行を停止する効力を有しない』と規定がされている。しかしながら、憲法32条には、以下のように規定されている。
 『何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない』
 なお、憲法は刑事訴訟法を含めたすべての法律の上に立つ最高法規であり、刑事訴訟法の在り方を拘束し、刑事訴訟法よりも優先する。
 再審請求中の死刑執行は、この「裁判を受ける権利」を実質的に奪うものではないのか。
 もちろん、再審請求の審理が憲法に言う「裁判」に当たらないのであれば、この限りではない。しかしながら、そのような説は聞いたことがない。再審請求に対しては「決定」が行われ、これは裁判所による裁判であると、刑事訴訟法の参考書には書かれている。再審請求自体が、「裁判」の一つである、非終局裁判に当たるのではないか。
 仮に、「再審請求」自体が「裁判」と言えないとしても、再審公判自体は、明らかに裁判と言える。その再審の可否について、判断を死刑執行により強制的に打ち切ってしまう。これだけでも、明らかに裁判を受ける権利を侵害していると言えるのではないか。
 なお、刑事訴訟法442条には、『検察官は、刑の執行を停止することができる』とある。しかし、再審請求は検察官が要求し獲得した判決に対し、その破棄を求めるものである。ここでも、検察官に、検察官の要求を審査させていると言えるのではないか。死刑執行は、法務大臣の命令によるので、条文上は検察官が冤罪者の口をふさぐことはできないようになっている。しかし、実際には死刑執行は検察官が上申し、多くの局面で関与をしている。本当に、検察官の死刑による隠蔽を阻止できるようになっているのか。検察官の「善意」に依拠する仕組みになってはいないか。

 私は、西川が判決通り有罪なのであれば、死刑執行は仕方がなかったと考える。しかしながら、連続殺人犯であっても裁判を受ける権利は保障されるべきであり、再審についても同様である。根拠なき再審ならば、速やかに棄却されるのであり、それをもって死刑執行すればいい。また、行政に過ぎない法務省=検察が、死刑執行により再審請求を終結させることは、行政による司法への侵害ではないか。
 そして、裁判を受ける権利を奪われるのは、西川だけでは済まないかもしれない。伊藤や松原のような死刑の正当性に疑問がある者、さらには、冤罪者たちにも、再審請求中の死刑執行が広がっていくかもしれない。「どんどん執行してほしい」「再審請求中の執行がもっと増えてほしい」と言っている方々は、あまりにも近視眼的ではないか。
 仮に、今回の死刑執行という結論が正当だったとしても、その手段が違憲違法であり、冤罪者などの救済に影を落とすことになれば、結果は是認できない。

 第二に、あの法相、あの内閣で死刑執行が行われたことについて。
 現在の内閣、法務大臣は、「国民の代表」と言えるような道徳的正当性を持ち得ているだろうか?強権的に共謀罪を裁決した金田法相も、疑惑にまみれ、反対者を「こんな人たち」などと罵倒する安倍総理も、国民の代表としてふさわしい人間か?政府は反対者や少数者の意見にも耳を傾けるべきであるが、そのような姿勢は皆無である。
 死刑執行は、お上が悪人をやっつけるお芝居ではない。国民の代表として雇用された国会議員が、行政を任され、熟慮のもとに行うべき事柄である。誰かの利益のために行われてはならないし、必要最小限度であるべきだ。
 しかし、どこか小馬鹿にしたような態度で、よどんだ眼で報道陣を睨みつける金田法相を見ていると、そのような問題意識は皆無に思えた。

 2016年11月11日、田尻賢一死刑囚が、死刑を執行された。裁判員制度下で死刑判決が確定した死刑囚として、二人目の執行である。

 私は、死刑廃止論者ではない。なので、死刑制度自体については特にいう事はない。
 勿論、確実に有罪であったとはいえ、田尻死刑囚への死刑判決・執行が正当であったか、という問題は残る。しかし、私は報道や判決文の内容以上は、田尻死刑囚の事件や人格について解らない。私は田尻死刑囚と交流を持ったことはなく、裁判を傍聴したこともないからである。
 ただ、起訴から控訴審判決まで一年に満たない裁判は、余りにも拙速ではないかと思う。また同人は自首をしているが、それは量刑上、汲まれてはいないようだ。果たして、田尻死刑囚の情状は十分に汲まれ、主張を尽くすことはできたのか、疑問は残る。しかしながら、それ以上は何もわからない。
 結局のところ、死刑判決、執行の適否についても、何も言うことはできない。

 しかし、この死刑執行では、一つ異例の事態があった。犯罪被害者支援弁護士フォーラム(VSフォーラム)が、死刑執行について、声明を出したことである。
http://www.vs-forum.jp/wp-content/uploads/2016/11/36f0b7320ec6e82e74d7b3792f1a2e37.pdf
 先月、日弁連は死刑廃止を打ち出した。それに対するカウンターではないかと思われる。しかしながら、そのカウンターのためだけに、わざわざ「死刑は当然である」と声明を出すことに、釈然としないものを感じる。
 この声明の意味は、田尻死刑囚の事件の遺族が、マスコミに乞われて「死刑は当然」などのコメントを出すのとは、全く異なる。遺族のコメントは、感情の発露である。事件内容を考えると、死刑を望むのも当然であろう。しかし、VSフォーラムの声明は、政治的行為である。
 何ら落ち度のない被害者二名を、金目当てで殺害したのであるから、凶悪犯ではあるだろう。しかし、死刑執行が妥当であったとしても、人の死に事寄せて、それを肯定的に扱うことで、政治主張を行う行為には、疑問を抱く。
 なお、同フォーラムが、自らの意見を発信する場を奪われているような事実は、ありえないであろう。

 そして、この声明の主張にも、疑問を抱かざるを得ない。
 第一に、この声明には「確定した死刑判決は、全て正当である」という前提がある。それは、弁護士の態度としていかがなものか。
 声明には、『死刑判決は極めて凶悪で重大な罪を犯した者に対し、裁判所が慎重な審理を尽くした上で、言い渡されています』とある。この文が、「確定した死刑判決は、裁判所が審理を尽くしたものであるがゆえに、疑義をさしはさむ余地がない」という意味にしか読めない。
 80年代に、免田事件、財田川事件、島田事件と、死刑確定した人々への、再審無罪が相次いだ。そして、近年には袴田氏に再審開始決定がなされている。確定した死刑判決が不当なものである可能性は、否定できないのではないか。
 そして、有罪であるとしても、その判決が必ずしも正当ということにはならないであろう。随分と昔の話ではあるが、恩赦により死刑から減軽された死刑囚も、存在する。近年は個別恩赦も行われていないが、むしろ、それこそが異常な事態なのではないか。
 声明を書いたのは、犯罪被害者支援に携わっているとはいえ、弁護士である。冤罪の可能性に目を向けず、最高裁判決の正当性に疑念をさしはさまない態度は、いかがなものだろうか。
 また、「被害者支援」の立場に立つとはいえ、「確定判決は正当であり、確定すれば執行しかない」といった物言いは、いかがなものか。裁判で、事件前の情状、あるいは事件後の情状がろくに考慮されない事例は、しばしば存在する。そのような事例も存在するからこそ、執行前の審査が必要なのであり、恩赦制度も存在するのではないか。
 そして、被害者側の犯罪行為が事件原因となっている場合、そもそも「被害者」が犯罪加害者であった場合にも、被告への死刑が正しいと無条件に肯定するのか。
 もちろん、私は伊藤や松原、あるいは、数は少ないが、他の「被害者」に追い詰められて事件を起こした死刑囚を念頭に、書いている。

 なお、同フォーラムは、竪山辰美への東高裁判決に対し、以下の声明を出している。
http://www.vs-forum.jp/proposal/479.html
 東京高裁判決については、「審理を尽くした」とは考えていないのだろうか。また、竪山の無期判決は最高裁で確定したのだが、これは支持するということか。

 第二に、この声明は再審制度や恩赦制度の意義を踏みにじっているのではないか。
 この声明には、『法律に従い、執行されるのは当然のことであり、執行に反対することは法律を遵守しなくても良いと述べていることと同じことです』という文もある。
 しかしながら、死刑囚の有罪に疑問がある場合、一部でも無罪の可能性がある場合、量刑があまりにも不当である場合にも、ただ執行すべしと言うのだろうか。そのような場合のために、再審、恩赦といった制度があるのだ。
 法務大臣は再審には関与しないとはいえ、判決の事実誤認を頭の片隅に入れ、執行を審査するのが当然ではないか。また、恩赦は法務大臣も審査に加わるものである。
 法務大臣の死刑への関与の在り方は、「ただ執行すればいい」というものとは、全く異なっている。「死刑が確定したから」「法務大臣は死刑を執行せねばならないから」という理由から、機械的に執行を勧めれば、執行すべきではない人間、冤罪の人間も、機械的に死刑執行されることになるであろう。
 そして、恩赦や再審を行使することもできず、執行されてしまった場合、その執行を非難するのは当然のことだ。
 「法律の遵守」というが、VSフォーラムの声明に従えば、再審請求、恩赦、と言った法制度は、絵に描いた餅となってしまうのではないか。

 第三に、「死刑執行」が法務大臣の義務であるか否かは、議論があるところである。
 「確定から六カ月以内に執行をしなければならない」という刑事訴訟法475条第二項の条文は、訓示的規定であり、法的拘束力を持たないと東京地裁で判決が出されている。また、平成27年7月31日の国会で、安倍総理は答弁書で、次のように答えている。
 『刑事訴訟法(昭和二十三年法律第百三十一号)第四百七十五条第二項本文においては、死刑の執行の命令は判決確定の日から六か月以内にしなければならない旨が規定されているが、これは、一般に、訓示規定であると解されており、六か月以内に死刑の執行の命令がなされなくても、裁判の執行とはいえ、人の生命を絶つ極めて重大な刑罰の執行に関することであるため、その執行に慎重を期していることによるものであって、違法であるとは考えていない』
 「死刑執行」という結末をあらかじめ決定し、機械的に決定するのであれば、「執行に慎重を期する」理由など、無いのではないか。死刑執行に前向きと思われる現政府ですら、一応は執行に慎重を期する必要性を、認めてはいる。
 結局、この条文は、法務大臣に死刑執行を命じているとは解されないのではないか。少なくとも、執行の必要性を検討し、その間に執行が止まること、機械的な執行を行わないことを、許容しているとは取れるのではないか。

 最後に。
 VSフォーラムは、これから先も、死刑執行の度に同様の声明を出し続けるつもりであろうか。しかし、冤罪の疑いの濃い死刑囚が、執行される可能性もある。伊藤たちのような、「被害者」から追い詰められた者が、執行をされる可能性もある。
 また、大山清隆のような、遺族が死刑を望んでいない死刑囚も、執行される可能性がある。
 そのような執行に直面した時、VSフォーラムは、やはり同じ声明を出すのだろうか。

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