伊藤和史獄中通信・「扉をひらくために」

長野県で起こった一家三人殺害事件の真実。 そして 伊藤和史が閉じ込められた 「強制収容所」の恐怖。

2021年01月

 真島事件ニュースレター『ゆきあかり』の創刊号が、発行された。
 私を含めた支援者、伊藤と松原の弁護士の先生方、そして、伊藤和史からのメッセージが載っている。
 伊藤がメッセージを送ってくれたことには、ほっとした。再審請求をしていないこともあり、外部との交流を完全に断つつもりではないか、と考えていたからだ。

 松原の控訴審からの弁護士である、宮田桂子弁護士も、メッセージを寄せてくださった。
同弁護士の記事からは、松原は控訴を取り下げかねない状況であったことが解った。
 松原は、三人の死にかかわってしまった以上、自分は生きていてはいけないと考え、控訴を取り下げようとしていた。しかし、「貴方が死刑確定すれば、伊藤さんは絶対死刑になる」と弁護士に指摘され、顔色が変わったという。控訴したのは、伊藤を救うためであった。松原らしいエピソードだと思う。
 松原は第三次再審請求を行っているが、精神鑑定を依頼したのは、岩波明医師であったとのことだ。同医師によれば、事件時の松原の状況は、複雑性PTSDに当たるとのこと。PTSD認定されたとして、心神耗弱などが認められるかはわからないが、それでも再審請求が成功することを祈っている。
 『被害者親子は、いわゆるヤミ金を営んでいたし、松原さんや伊藤さんは住み込みで働かされ、人間的な扱いをされていなかった。そういうことは一言も報道されなかった』
 報道の姿勢は、きわめて理不尽で冷酷である。「被害者」の名のもとに、犯罪行為の一切を封殺し、なかったことにしている。真島事件の「被害者」たちは、多くの人間の人生を破壊し、自殺へと追いやってきたが、それを黙認するのだろうか。

 伊藤和史も、メッセージを寄せてくれた。
 再審を行っていない心境について、次のように書いている。
 『判決の確定とともに主張していく気持ちが燃え尽きてしまった。事件当時の自分もどこかに置いてきてしまったような感じです』
 伊藤たちの受けていた犯罪被害に、理解を示そうともしない判決が、どれほど心を痛めつけたか。想像するしかない。現在も、今村弁護士の再審請求への説得を、断っている。何とか再審請求をしてほしいが、やはり難しいのかもしれない。
 また、妻子とは離婚した。その気持ちについても書いている。
 『私の存在は妻子を増々不幸に追い込んだ。だから、妻子にはどうか幸せであってほしい、星に願いをかけるような気持で決断をしました』
 金父子は、伊藤の妻子を真島の家に呼び寄せようと画策していた。妻子を金父子から守るため、犯行に及んだ面もあるのだ。それが、妻子を失う結果となってしまう。どれだけ、運命は非情なのだろう。
 姓が変わった理由についても書いてあり、改めて、伊藤が大変な状況に置かれていたのだと解った。
 『骨になっても帰る場所もありません。時々、他の家族がうらやましくも想いますが、でも、私にはもうそのことは考えてはいけないことだと想っています』
 また、2019年8月に死刑執行された庄子幸一は、伊藤の真正面の部屋にいたらしい。その執行についての衝撃も綴っていた。
 『今想い出しても、死刑執行で無理矢理に切り落とされる命のことよりも、私には、罪深く汚れていても人間に見えた。‘別れ’というものは、言葉に表現できない哀しさと心も痛い』
孤独な環境の中、すぐそばで生活していた人間が執行されたのは、どれほどショックだっただろうか。
 しかし、少しは明るい内容もあった。伊藤が、外部交通には消極的ではないということだ。
 『現在も外部交通を認められていない人にも本当に救われる想いもあって、確定前の交流者から今も私のことを忘れずに心にかけてくれる人が僅かに残ってくれていて、そして、新たに許可者のつながりの人からも応援してくれる。逢って話すことも手紙で伝え合うできない中で、限られた差入れという方法で直接に気持ちをカタチにして伝えてくれたり、私の誕生日を忘れずに祝ってくれることも。この心が沈む果てしない孤独の環境ではとても励まされます』
 『御礼状に綴る許された範囲内の私の言葉には、いつか外部交通が認められるといいなあ、という希望も込めて、いつも綴っています』
 『支えてくれる人がいてくれることに、心から感謝の想いでいます』
 孤独と絶望の中、外部交流まで一切を断ってしまう死刑囚もいる。あるいは、精神障害が悪化し、外部交流ができなくなる死刑囚もいる。そのような状態になっていたらどうしよう、と心配だった。しかし、伊藤は再審請求こそ行っていないが、他者との交流を続ける気持ちはあるようだ。
 外部交通が制限され続けるならば、さしあたっては、ニュースレターという形で交流を続けていければと思う。

 過ぎた2020年は、死刑執行が一件も行われなかった年となった。
 理由は不明であるが、読売新聞によれば、『法務省は今年、内閣の判断で検察幹部の定年を延長できるようになる検察庁法改正案への対応などに追われた経緯があり、こうしたことが背景にあるとみられる』とのことである。
 肝心の理由説明については、同記事でも曖昧で短いが、結局は理由が十分に解っていないということだろうか。
 私は死刑廃止論者ではないが、現在の自民党が執行を行う事、死刑制度の現状については疑問があり、今年死刑執行が行われなかったことについては、正直に言えばよかったと思っている。
 前提として、死刑執行は十分に検討を重ねたうえで行われるべきであると考える。法務省がコロナなどの何らかの対応に追われ、死刑執行のための熟慮検討を重ねることができないのであれば、死刑執行が結果的に行われなかったとしても仕方ないのではないか。ろくに熟慮検討もせず、執行を強行することこそ、むしろ異様であろう。
 そして、死刑をめぐる現状は、死刑執行にふさわしい状況にあるとは思えない。
少なくとも、執行を行うには一定の清廉さが必要であると思うが、疑惑と不誠実さを引き継いだ菅政権に、その清廉さはないと考える。
 また、再審請求を歯牙にもかけず執行を繰り返している。これは、真実の発見、死刑囚の弁護権の侵害にもつながる。最悪の場合、袴田事件のような冤罪でも執行してしまう事へとつながる。私は死刑廃止論者ではないが、そのような執行の在り方は、到底容認できない。
 恩赦請求中の執行も、真島事件のごとき事件や、そのほかの酌量の余地もある事件について、死刑執行という行政の強権により、量刑審査を断ち切ることになり、やはり容認できない。
 このような死刑執行の現状において、執行が行われなかったことは、安堵させる出来事であった。
死刑執行再開前に、真島事件のような事件で死刑を含めた重刑が下らない、恩赦が積極的に適用される、死刑執行により再審が断ち切られない、そうした死刑の在り方に変わることを望んでいる。
 しかし、現政権にはそのような視点は皆無であろう。

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