伊藤和史獄中通信・「扉をひらくために」

長野県で起こった一家三人殺害事件の真実。 そして 伊藤和史が閉じ込められた 「強制収容所」の恐怖。

2016年02月

 先月の2016年1月26日、高橋明彦という被告の最高裁弁論が行われ、3月8日に判決期日が指定された。
 名前を聞いて、事件を思い出す人もいるかもしれない。2012年7月26日に発生した、福島夫婦強盗殺人事件の犯人である。同人の事件を担当した裁判員の一人は、「裁判員として現場写真を見たことで、PTSDとなった」として、民事訴訟を提起した。私は高橋の控訴審を傍聴に行ったが、普段はまばらな仙台高裁の傍聴席は、半分ほど埋まっていた。民事訴訟が大きく報道されたためか、事件自体についても、多少は知られるようになったようだ。
 今回、私がこの事件のことを書いたのは、PTSD訴訟に着目したからではない。その審理期間の短さに、驚いたのである。
 高橋の事件について、時系列に沿って書くと、以下のようになる。
2012年7月26日・・・事件発生
同年8月17日・・・高橋を起訴
2013年3月14日・・・福島地裁で死刑判決
同年11月28日・・・仙台高裁で控訴審初公判
2014年6月3日・・・仙台高裁で控訴棄却
2016年1月26日・・・最高裁で弁論
同年3月8日・・・最高裁での判決。
 おそらく、上告は棄却されると思われる。死刑事件において、起訴から3年数か月で上告審判決まで出てしまうというのは、あまりにも短すぎはしないだろうか。
 ましてや、弁護人たちは、「裁判員がPTSDに罹患しているにもかかわらず、漫然と裁判を進めた」として、訴訟手続きの違反があったと主張している。このような重大な論点を含んでいるにもかかわらず、ひときわ早く、最高裁で判決が出されることになる。
 
 以前、裁判員制度下の平均的な死刑事件上告審期間は、2年数か月となるのではないか、と書いた。しかし、それなりに争点のある被告である、高橋の上告審審理期間は、およそ1年9ヶ月程度である。これからは、争点の少ない事件では1年数か月となってしまうのではないか、と今は考えている。
 およそ10年ほど前は、争点の少ない死刑事件であっても、最高裁の審理には4年以上の時間が割かれるのが普通であった。今のスピード好みから考えれば、同じ国の話とは思えない。

 また、石巻殺傷事件の少年被告人、C・Yの最高裁弁論も、2016年4月25日に指定された。
 少年死刑事件の上告審期間は、長くなるのが通例であった。1992年に発生した市川市一家四人殺害事件のS・Tは、控訴審判決から上告審判決まで5年5ヶ月の審理期間がとられている。また、1994年に発生した連続リンチ殺人事件では、少年三被告の審理期間も、同じく5年5ヶ月である。
 しかし、石巻事件の控訴審判決は、2014年1月31日。控訴審判決から上告審弁論までの期間は、2年3ヶ月にやや満たない程度である。少年であっても、量刑の選択にあたって、熟慮を重ねる時間は特に設けないということか。

 不幸なことに、近年において死刑求刑される事件は、被告人が人間的に救いようがなく、動機に一片の酌量の余地のない事件ばかりではない。その極端な例が、真島事件である。時間をかけさえすればよい結論が出るわけではないだろうが、短時間での結論は、熟慮とは程遠い。

 刑事訴訟法411条は、上告が認められる場合として、「著しい量刑不当」を定めている。懲役刑の事件では、これに該当するとして刑を減軽された例が散見されるし、死刑判決が下された事件であっても、減軽事例はゼロではない。
 たとえ争点が量刑面である事件でも、刑の妥当性を詳細に検討する時間を設けて、しかるべきではないのか。

~追記~
 浅山克己被告の最高裁弁論期日が、2016年4月15日に指定された。
 浅山は、交際相手にストーカーを行い、その家族三人を殺害した。一審、二審ともに死刑判決を受けており、控訴審の判決日は2014年10月1日である。
 控訴審判決から弁論までは、1年半しか経過していないということだ。判決は5月か6月。事件の内容や審理期間の短さを考慮すれば、上告棄却の可能性が、極めて高い。
 二件も続けば、例外とは言えないであろう。やはり争点の乏しい事件では、上告審判決まで1年数か月という期間がスタンダードになるようだ。

 私事多忙のため、更新が滞りがちとなってしまっている。これは、本来であれば今年の初めには書かれているべき記事であった。伊藤や関係者には、申し訳ない次第だ。

 ご存知の方も多いかもしれないが、伊藤和史の最高裁弁論期日が、指定された。
 2016年3月29日である。
 判決は、4月の末か5月上旬ぐらいだろう。控訴審から上告審判決まで、およそ2年2か月。松原よりも、さらに早い判決となる。
 減刑となることを期待したいが、これまでの状況を見るに、とても期待することはできない。何をするべきか、とても思いつかないのが正直なところだ。
 これからは、再審請求を行っていくしかないのだろうが、果たして私は確定後も伊藤と交流を持つことができるのだろうか。伊藤は交流を申請してくれるようだが、東京拘置所が許可を出してくれるかは不透明である。

 2月15日の面会日、伊藤は笑顔だった。
 しかし、内心では死と、それまでの孤独を受け入れる決意を固めていた。身辺を整理し、家族との縁を切るべきではないかと考えているようだった。
『僕のことは忘れて、幸せになってほしい』
 家族について、何度もそう口にしていた。確かに、死刑が確定してしまえば、伊藤は家族のもとに帰ることはできないだろう。伊藤の内妻たちは、これまで伊藤を支えてきた。しかし、伊藤の死刑が確定すれば、死刑囚を身内に持つ苦痛ばかりではなく、帰ることのない夫を待つ現実も、のしかかってくる。それが、伊藤には耐えられないようだ。
『悪いことをした自分が悪い』
 伊藤は、幾度もその言葉を繰り返した。私は、それを耳にするたびに、不条理を感じた。確かに、伊藤の行為は法に反しており、無罪とは言えない。しかし、伊藤を搾取し、傷つけ、死さえも考える心境にさせたのは、金父子たちの犯罪行為である。
 「逃げればよかっただろう」と、裁判官や裁判員、検察官は、得々と判決や論告で述べていた。もちろん、家族にどのような不幸や犯罪が降りかかろうが、構わないというのであれば、逃げることはできた可能性はある。裁判官・裁判員諸氏であれば、法を破るよりも、家族の不幸や死を選んだのかもしれない。
 しかし伊藤にとって、内妻たちは初めて持つことのできた、大切な家族だった。自分自身の命より、大切に思っていたかもしれない。そのような人々を切り捨てて逃げることなど、できなかったのだ。
 付け加えれば、金父子の徹底的な監視や追跡により、逃亡が成功する可能性は、ゼロではないにせよ相当程度低かった。つまり、伊藤の「逃亡」することへの期待可能性、殺害を行わない期待可能性は、金父子たちの犯罪行為自体が、低下させていたのである。 
 
 私が面会室を出るとき、伊藤は、いつものように笑顔で手を合わせていた。
 この笑顔を、あと何回見ることができるだろうか。

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