伊藤和史獄中通信・「扉をひらくために」

長野県で起こった一家三人殺害事件の真実。 そして 伊藤和史が閉じ込められた 「強制収容所」の恐怖。

2014年11月

“私は・・・生きて償うことが赦されるのだろうか?”
“私の余生は、あとどのくらい残っているのだろうか?”
“正直、まだ死ねない”
“望みはあるけど・・・これから先が・・・なぜか・・・はっきりと視えない”
“最後まで私の傍に居てくれる人は、いったい誰だろうか?”
“ここで私が死んでしまったら・・・どうしよう?”
“その時は、出逢ったみんなとサヨナラになってしまう”
“寂しいなあ”
“もし、私が死んでしまったとしても、私のことを忘れないでずっと憶えていてくれるのなら、それだけでも私があなたの中で生きていることになるよなぁ”
“まだ、諦めたわけじゃない”
“優しくて温かい心を感じられるまでは、みんなと同じ空の下で頑張って生きていこう”
“少しずつ自分自身を・・・みんなを愛していこう”
“暗いこの先には、何があるのか解らない”
“これからどうなるのか解らないから、この世に私が生きていたという証に何かを残しておこう”

 これらは、私の心のつぶやき。
 もしくは、私の独り言。

 私は、平成23年12月27日の裁判員裁判の判決に於いて、死刑判決を言い渡された。
 自身の生きる道を見失ってしまった。
 焦った。
 先が暗くて本当に焦った。
 私がこの世に存在していること、まだ生きていることを知らせたかった。
 しかし、何回話掛けても、すべてが独り言になって終わる。
 畳三帖ほどの独居房に生活する私の身の周りには、便利と言えるものが何一つとない。
 死刑判決に伴って、短命な人生となってしまった私は、大切なものが知らず知らずのうちに失い続けていることに気付く。
「このままでは、何もかもなくなってしまう。」
「何か残さなくては・・・」
 といっても、私の身の周りにはノートやペン、便箋くらいしかない。
「ノートに何かを残すとして、タイトルは?」
「題名は何にする?」
 残された時間というものに追い込まれて、異常なほどに私の心から、私の口から、様々なたくさんの言葉があふれ出す。
 ふと、心のつぶやきから変わる声に、音があることに気付いた。
“心のつぶやき”、“声の音”、“ノート”
 限りあるものの中から、それらを掛け合わせて「心のおと」という言葉が生まれた。
 その日は、平成24年4月9日。
 子どもの入学式だった。
 その言葉に愛着と縁を抱き、ノートのタイトルとして私の想い想いの詩や絵、ときには事件のこと、他のことなどを残そうと考えて現在に至っている。
 日々の日記を綴っているわけではないので、現在はまだ3冊目なのですが、それらの綴ったものの中から私独自で選んだものを抜粋して、過去のものから順に紹介していこうと想う。
 もしかしたら、修正することもあるかもしれないが、できる限りそのまましたいと考えている。
 こうして、ブロガーさんの配慮によって、このブログ内に「心のおと」というカテゴリーを設けて頂きました。
 そして、紹介していくにあたって私からの事情としてひとつ断っておきます。
 私が生きている間、もしくは、東京拘置所長殿が私とブロガーさんとの外部交通権を不許可にしない限り、私のペースでひとつずつ紹介致します。
 今回は「心のおと」を紹介していくご挨拶として、ペンを執らせて頂きました。
 御覧頂く方には、あなた様の大切なお時間をこの私に与えて下さったものとして、心から感謝したいと想います。
 ブロガーさん並びに御覧頂く皆様、宜しくお願い致します。
 では、ここでペンを置き、失礼させて頂きます。
                               2014年11月1日(土)
                                    伊藤和史

 以前の面会から、一か月以上、時間が空いてしまっている。この日の伊藤は、袖をまくりあげたシャツ、半ズボンといういでたちだった。髪がやや長く伸びているところを見ると、以前面会した時から、散髪できていないようだ。
 まず、ブログについての打ち合わせ、事件について若干の会話をした。その後、伊藤自身も忙しい、という話になった時
 「忙しいという言葉は嫌いです」
 ぽつりと口にした。
 「忙しいって、心が亡くなると書くじゃないですか」
 これまでの面会でも、私の仮名案について、「悪人のように思えてしまう」と口にしていた。言葉の響きに、強いこだわりを持っているようだ。
 そして、自分が書きたいと思っている本のことについて切り出した。
 伊藤は、数十枚の色紙に絵を描いて、絵本を作ろうとしていた。色鉛筆と染料を用いて、絵を描いたらしい。赤、緑といった鮮やかな色で、動物や文字が描かれていた。
 足りない色もあったのではないか、と私が訊ねると、「自分で作った。塗装をやっていたから、その色とどの色を混ぜたら、何ができるかは知識があってね」と答えた。
 なんとか、これを本として出版したい様子だった。しかし、状況は芳しくないようだ。本として出版が無理だった場合、大道寺幸子展のようなものに出品してはどうか。そう尋ねると、これについては本以外の形で出すつもりはない、と答えた。最終的には、インパクト出版会にも相談してみるつもりのようだ。
 松原は上告を棄却されてしまい、伊藤にとって厳しい状況である。伊藤もそれを理解しており、だからこそ、生きた証として本を残したいと考えているようだ。また、苦労をかけている妻子に、少しでもお金を残したいという思いも口にした。
 その後は、散漫な話をしていると、面会時間の終了が告げられた。伊藤は「気を付けて帰って」と私に労いの言葉をかけ、手を合わせて私を見送っていた。

 ブロガーさん、こんにちは。
 あなた様の大切なお時間を使わせて頂くとともに、お世話になります。
 本日、10月29日の東京は空が青く良い天気です。
 朝晩は徐々に寒くなりましたが、お元気でしょうか。
 私は先週の10月22日の晩から、ちょこっと風邪にやられ始めましたが、この東京拘置所で戴いた風邪薬と私のために差入れて頂いた食べ物、そして暖かい衣類のおかげで、2・3日の間に元気になりました。
 少しでも体調が悪くなった時の独りというのは、とても心細いものです。
 しかし、それも私自身が犯した罪への罰だと想っております。

 話は一転しますが、先日は私に逢いに来て下さり、大変に感謝している次第です。
 約15分間というあっという間の面会時間ではありますが、私にとって世間での会話レベルを取り戻すための良いリハビリになって、非常に助かっております。
 相変わらず、私は頭の中でたくさんの言葉が交錯してしまって、途中から何を話しているのか解らなくなってしまいました。
 そんな私に対して、黙って私の声を聞いて下さるあなた様に、重ね重ね感謝致します。
 それと、もうひとつ、お金の差入までして頂き、本当にすみません。
 資力の無い私には、食べ物や日用品、その他のものと同じくらいに、お金の差入も大変に助かります。
 差入告知を受けた時、有難く頂戴しました。
 ありがとうございます。
 早速、そのお金で夏もの衣類の洗濯代にさせて頂きました。
 この東京拘置所に移送される前の長野県の刑事施設では、洗濯代を必要とすることは全くありませんでしたが、東京拘置所での洗濯は、肌着や下着、靴下だけしか受けて下さらない。
 それ以外は、すべて東京拘置所が指定するクリーニング店にて有料なので困ったものです。
 そんな贅沢は言ってられないですね。
 今、こうして生きていること事態が、有難いわけですから。
 ところが、同じ服を着続けることくらい我慢しなければいけないのに、つい、“きれいな服が着たい”という欲に負けてしまいました。
 そういう欲の方が困りものですね。
 お礼の意が徐々に私の愚痴っぽい内容になりつつありますので、ここで止めておきます。

 先日の面会のお話の中で、私の手記(「心のおと」)を載せて頂けるということで、これから少しずつお世話になります。
 その件において、少し時間といいますか、現在、時間に余裕がありません(『忙しい』という言葉が嫌いなので表現を変えております)ので、綴り次第で送付いたします。
 私の勝手で申し訳ありません。
 宜しくお願い致します。

 では、ここでペンを置こうと想いますが。
 改めまして、逢いに来て下さり、そしてお金の差入まで、ありがとうございます。
 又、ブロガーさんの大切なお時間と大切な生活の一部を私に与えて下さったことも感謝しております。
 10月が早くも終わりを迎えつつあり、増々寒さを感じるようになりつつあります。
 どうか、お身体にはご自愛ください。
 今日も一日、お疲れ様です。
 失礼致します。
 平日、一日一通制限により、発信が集中して遅れること、大変に申し訳ありません。

2014年10月29日(水) 伊藤和史

伊藤から許可をもらうことができたので
伊藤和史の控訴審判決要旨を、ブログにアップする。
判決要旨原文なので、被告人、被害者は仮名となっていない。
真島事件の実態、弁護人の主張、裁判所の認定を知るうえで、参考にしてほしい。

伊藤和史控訴審判決

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