伊藤和史獄中通信・「扉をひらくために」

長野県で起こった一家三人殺害事件の真実。 そして 伊藤和史が閉じ込められた 「強制収容所」の恐怖。

2014年09月

 松原智浩の高裁判決が下された少し後、2012年3月末の信濃毎日新聞に、下記の記事が掲載された。真島事件の報道の一例として、アップしておく。
 なお、この伊藤の写真は、伊藤の現在とは全く異なっている。法廷での伊藤は、同一人物とは思えないほどやせ細り、今にも倒れるのではないかと思えた。

信濃毎日新聞・2012年3月末記事


 何とも奥歯に物が挟まったような記述だが、それでも『束縛から逃れるのが動機と主張』と書くなど「被害者の犯罪」に言及している。記者が伊藤に取材をし、伊藤のコメントも運用している。割いた紙面も、比較的大きい。信濃毎日新聞なりに問題意識を持ち、努力したのかもしれない。伊藤の高裁公判時にも、信濃毎日新聞の記者らしき人々が、今村弁護士を取材している光景がたびたび見かけられた。真島事件の被告たちが、長野地裁唯一の死刑判決を受けた者たちである、ということもあるだろう。しかし、真島事件の結末について、新聞社としても気にしている面があったのかもしれない。
 それらを認めたうえで、報道の在り方に疑問を抱く。殺人、出資法違反、傷害といった、明らかな犯罪行為を非難できない報道とは、いったい何なのだろう。
 警察も検察も、宮城殺害、金父子のヤミ金を認めている。松原が受けた被害は、地裁高裁の判決文にはっきりと認められている。伊藤の被害は、伊藤の地裁判決は卑劣にも認定から逃避したが、松原の高裁判決はこれをはっきりと認めた。伊藤の公判における証言や心理鑑定、養子縁組記録、伊藤の傷痕から、事実と認められるほど証拠も集まっている。のちの高裁判決では、伊藤の被害についてもはっきりと認定された。
 この報道の時点でも、「被害者の犯罪」は、事実と認定可能であったのだ。「被害者」ということになれば、どれほどの悪行を行おうとも、批判してはならないということか。

 また、「裁判員裁判の期日の在り方」という問題に仮託して、伊藤の判決に疑問を呈している。しかしながら、判決に婉曲に疑問を投げかけながらも、「制度の在り方」に疑問を呈するのみだ。「裁判員の判断」について疑問を呈することはない。この傾向は、真島事件の報道の節目で、たびたび見られた。「被害者」を批判することへの遠慮とともに、「裁判員」を批判することへの遠慮もあるのだろうか。
 しかし、批判精神は、報道の生命と言ってもいいのではないか。特定の立場の人間であれば批判しない、というあり方は、「報道の自由」「良心の自由」を、自ら投げ捨てる行為とは言えないか。

 この日の伊藤は、袖なしシャツに半ズボン、という格好だった。以前と比べ、前髪が伸びたようだった。私の姿を見ると、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
 文通の状況について聞くと、最近になってから文通相手が増えたらしい。しかし未だ文通のみであり、面会まではいっていないようだ。
 「そこまで、図々しいことは言えません」
 相手にかける交通費と時間の負担について、気を遣っている様子だった。小菅は東京の外れであり、都民でも東京拘置所に行くのは一苦労であろう。
 しかし、伊藤は現在、他人と話せない環境にいる。『長野の会』は東京近辺に居住しているメンバーはおらず、一般面会はあまり行われていない。ひと月のうちほとんどは、刑務官以外の他人と話さない計算だ。その刑務官も、必要最低限以外には、収容者との会話は許されていない。先日は、死刑廃止団体である『そばの会』の人々が三人で面会に訪れたが、うち二人は初対面だったこともあり、あまり深い話はできなかったらしい。
 伊藤は、差入について「助かりました」と礼を述べた。拘置所生活も、なかなか物入りが多いらしい。例えば、クリーニングは有料であり、ジャージの上下を出したら1300円かかってしまう。汗をかきやすい夏では、随分とお金がかかってしまうのではないか。そのような負担の中、少しの差入でもありがたいようだ。
 縄跳びについても、話題に出た。この日の二重跳びは、107回を達成した。うれしそうに笑いながら、手を見せてくれた。指には、水ぶくれができていた。
 また、最近は眠りが浅いとも教えてくれた。理由の一つは、今作ろうとしている本に関係している。伊藤は、かねてから詩集のような本を書きたい思いがあった。そのため、日々、思いついた言葉を書き留めている。
 「夜中に言葉を思いついたら、ぱっと起きて、紙に書きつける。寝ているか起きているか、よう解らん」
 伊藤は、照れたような笑みを浮かべ、言った。縄跳びや本の作成など、これだけを見れば、真島の家の体験から脱却しつつあるように思える。しかし、眠れないもう一つの理由は、『真島の家』の記憶が関係していた。
 「夜中の足音、文夫さん、良亮さんの足音を思い出してしまう。そして、気が張って目が覚めてしまう」
 真島の家では、身体、生命の安全は常に脅かされていた。精神的にも拘束されている状態であり、トイレ以外に安らげる場所がなかった。拘置所が自由と感じられるような生活。その体験は、伊藤の記憶の中に根を張っている。
 上告趣意書の締め切りが近づいていることも、眠りの浅さに拍車をかけていた。
「当時の心理状態を、言葉にしないといけない。けれど、難しい」
 困惑したように言う。そもそも、気持ちを言葉にするのは難しいものだ。ましてや、『真島の家』のような、恐怖と睡眠不足で心が凍りついているような状況では、言葉にするのはなおさら難しいのではないか。そして、気持ちを思い出すことで、真島の家の記憶も思い出してしまうのかもしれない。

 話は変わり、本の差し入れについて、「ありがとうございます」と礼を口にした。英語や中国語の日常会話はできたとのことだったので、てっきり英米や中国に興味があるのかと思っていた。しかし実際は、料理やジャズが好きだったため、関心を抱いたらしい。
なかでも、料理は小さいころから作っていたこともあり、好きだった。そのため、学校を中退してからは、インド料理店に就職した。しかし、持病のヘルニアが悪化して立ち仕事ができなくなり、退職を余儀なくされた。それでも料理は好きゆえ、家庭でもよく料理を作っていた。宮城に搾取されていた時期も、家に帰れた時には、自分で料理を作っていたほどだ。
 「台所が一番好き。僕の部屋みたいなもんやから」
 伊藤は料理店を辞めた後、派遣会社に勤務したこともあった。一時は、風俗営業店に勤めたこともある。その理由は、肉体労働ではなく、ヘルニアでも仕事ができたためだった。その間も、いつかまた料理を作りたいと考え、昼の仕事を探していた。
 このあたりで、面会終了が、刑務官から伝えられる。私は、伊藤にまた来る旨を伝え、面会室から退出した。伊藤は嬉しそうな笑顔を浮かべながら、手を合わせ、「ありがとう」と何度も礼をしていた。

 2014年9月2日、松原智浩の上告が棄却された。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140902/trl14090215520003-n1.htm
 
2014.9.2 15:52
 長野市で平成22年に一家3人を殺害するなどしたとして、強盗殺人罪などに問われ、1、2審で死刑とされた水道設備工、松原智浩被告(43)の上告審判決で、最高裁第3小法廷(大橋正春裁判長)は2日、被告側の上告を棄却した。死刑が確定する。1審は裁判員裁判で審理されており、国民が関与した死刑判決について最高裁が判断するのは初めて。

 今年7月末現在で、裁判員裁判で死刑が言い渡されたのは21人で、3人が控訴を取り下げ、1人が上告を取り下げてそれぞれ確定。松原被告を含めた14人が上告していた。

 同小法廷は、共犯に問われた伊藤和史被告(35)が「犯行を主導した」と認定。松原被告は「2人の殺害に自ら手を下し、伊藤被告の相談相手となるなど、本件の遂行にあたって重要で必要不可欠な役割を果たした」と指摘し、死刑とした1、2審判決を支持した。

 判決によると、松原被告らは22年3月24日、建設業の金文夫さん=当時(62)=宅で、金さんと長男夫妻の首を絞めて殺害。約416万円を奪い、遺体を愛知県西尾市内に埋めた。

 1審長野地裁の裁判員裁判判決は23年4月、「刑事責任は誠に重い」として死刑を選択。24年3月の2審東京高裁も支持した。

 共犯者のうち、伊藤被告は1、2審で死刑とされ、上告中。池田薫被告(38)は1審の死刑判決を2審が破棄、無期懲役とし、被告側が上告している。
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 なお、この産経新聞の記事には誤りがある。松原の一審判決年月日は、平成23年3月25日が正しい。

 私は、最高裁判決を傍聴に行かなかった。
 最高裁の公判には、被告人は出廷しない。つまり、傍聴することで被告を勇気づけることも不可能だ。最高裁の判決公判は、まさしく判決を甘受するだけの場である。
 最高裁の判決文は、「三行半」とも仇名される、短く簡単なものであり、朗読は数秒で終わると予想できた。開廷から数秒後には、失望と怒りを沈殿させ、法廷を後にすることも。
 何一つできず、心に毒を注がれるだけならば、最初から行かない方がましである。 
 少し経てば、裁判所のHPで松原の最高裁判決が公開される筈だ。最高裁判決への感想は、それを待って書きたいと思う。
 とはいえ「三行半」であるから、その内容は新聞記事のつぎはぎと大差ないものかもしれない。
 
 私が伊藤和史を支援するようになったきっかけは、松原の控訴審傍聴と面会である。「長野の会」の代表も、松原との交流が、真島事件被告への支援のきっかけとなった。いわば、松原の存在が、支援運動の起点になったと言える。
 松原は被害者たちを殺害したことを非常に悔いており、「正直、恐ろしいけれども、死刑を受け入れるつもりです」と被告人質問で答えていた。被害者たちからの犯罪被害。死刑への恐怖。それらをすべて受け入れ、死をもって責任を取るべきだと考えていたようだ。上告したのは、弁護人の熱意ある説得と、家族のことを考えたからではないか。
 支援活動が始まった当時、事件の真相は十分に明らかになっていなかった。伊藤の公判はいまだ開始されておらず、松原の一審弁護人は事件の真相に、裁判であまり言及しようとしなかった。このような状況であるにも関わらず、支援運動は少しずつ広がっていった。
 松原の人柄があったからこそ、彼が遠慮がちに語る事件の真相は、人々に受け入れられたのである。
 
 松原は、大人しいが、仕事や対人関係などの責任感が絡む局面では、意志が強い。だからこそ、「被害者」たちの犯罪行為に、黙々と耐えていた。家族以外とほとんど交流を持たず、死刑を受け入れる姿勢も、そのような意志の強さの表れだろう。
 今回は、その責任感は、「死刑を受け入れる」という形で表れている。だからこそ、現状では再審請求に消極的だと思われる。
 しかし、どうか家族や弁護人の説得に、折れてほしい。意志の強さを、今この時だけは、曲げてほしい。

 松原の死刑が執行されないこと、生きて拘置所の外に出られることを、心から願っている。 

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