伊藤和史獄中通信・「扉をひらくために」

長野県で起こった一家三人殺害事件の真実。 そして 伊藤和史が閉じ込められた 「強制収容所」の恐怖。

2014年07月

 2014年7月15日、松原智浩の最高裁弁論が行われた。その模様について、筆記できた範囲で、記録に残そうと思う。
 なお、弁論内容だけではなく審理の模様まで書いたところ、蛇足が多くなったのか、長くなってしまった。なので、今回は内容を三分割して投稿する。

 傍聴券は全部で48枚。交付時間は12時55分であり、それまで西門の前で並ばされて待たされる。長野の会のメンバー、伊藤の弁護に一審から携わってきた今村弁護士、松原の同級生も並んでいた。
 その他にも、記者らしき人一名、女子高生のグループが二組、並んでいた。うち一グループは、門の前で写真を撮るなどしながら、談笑していた。彼女たちの態度を見る限り、この事件の概要を知らず、興味も抱いていないようだった。社会科の授業の課題だろうか。  
 結局、12時55分の交付時間までには、25名ほどが並んだ。通常、最高裁の死刑事件弁論では、並ぶのは数人から12,3人ほどである。「裁判員裁判初」という要素があるからか、通常の死刑事件弁論よりは並んだ人が多かったようだ。鰹から裁判まで、「初」が好まれるらしい。
 傍聴券が交付されたのち、傍聴人たちは最高裁の内部に案内された。ロッカーに筆記用具と傍聴券以外の荷物を預けさせられ、金属探知機のゲートをくぐらされる。職員に引率され、ソファとTVのあるホールに案内されて、しばらくそこで待たされた。
 ホールのTVでは、映画の宣伝映像が流されていた。『裁判員~選ばれ、そして見えてきたもの~』という、裁判員制度推進のための映画だ。2007年に作成されたものである。私が2011年に最高裁の傍聴に訪れた時も、流していた記憶がある。裁判員制度が終わるまで、10年経とうと、20年経とうと、流し続けるのだろうか。
 長野の会のメンバーと今村弁護士は、松原の同級生だった人と話をしていた。私は、体調が思わしくなかったため、ソファに座って時間をつぶしていた。傍聴人たちは、それぞれのグループに分かれ、手持無沙汰に時間を過ごした。
 13時8分、職員からアナウンスがあり、第三小法廷に案内することが伝えられた。ここまでは、最高裁の通例の儀式だ。しかしその後、「弁論は4~50分かかりますので、トイレに行っておいてください」「左右の出入り口のどちらから入ったら、この番号の席は近い」といったアナウンスがされた。弁論の予定時間の告知、席の案内などは、これまでの最高裁ではなかったことだ。
 いつにない丁寧さ。「裁判員裁判初」ということで、最高裁も儀式に力を入れているらしい。松原の弁護士には、関係者が何人傍聴に来る予定か、質問の電話があったらしい。警戒し、批判される隙を作らないようにしているのか。
 職員に引率され、傍聴人たちは最高裁第三小法廷に入った。そして、傍聴券に記載された自分の席に腰を下ろす。
 法廷は扇形であり、要の部分に当たるのは、裁判官たちの席だ。そこから法廷は扇形に広がっている。バーの内部にあるのは、まずは書記官二人の席である。その近くに弁護人、検察官の席がしつらえられている。バーの外に出てからは、傍聴席や記者席、関係者席が広がっており、一番外縁部分に法廷への出入り口がある。
ちなみに、最高裁では、被告人は裁判所の許可がなければ出廷できない。そのため、死刑事件であっても、被告人が出廷することはまずありえない。そのため、被告席も証言台も、バーの中には存在しない。
 書記官は、髪の短い4~50代の男性と、髪を短く刈った眼鏡の中年男性だった。書記官はそれぞれ横川進、山口憲造というらしいが、どちらがどちらか解らない。二人とも硬い表情を浮かべ、うつむいたり、前を向いたり、どことなく落ち着かない様子だった。
 裁判長の席の近くに、髪を短く刈った、痩せた中年の職員が座っている。
 弁護人は、控訴審から松原の弁護に携わっている、宮田桂子弁護士と、大槻展子弁護士だった。二人とも黒いスーツ姿であり、机の上に書類を広げ、目を通していた。
 検察官は、名を野口元郎という。前頭部から頭頂部にかけて禿げ上がり、残った髪を短く刈った中年男性だ。眼鏡をかけており、堅物そうな役人然とした風貌の持ち主だ。勿論、スーツ姿だった。どこか気だるげな足取りで入廷し、席に座ってからは書類に目を通していた。
 入廷が許され、少したってから後ろを振り向くと、マスコミ関係者が五台のビデオカメラを構え、出入り口付近に陣取っていた。その周囲に、職員が数人立ち、カメラマンの動静を見守っていた。随分と物々しい雰囲気だが、これは被告人不在の法廷で、裁判官たちの顔と、傍聴人の後頭部を映すための準備に過ぎない。
 記者席には、記者らしき人々の姿があった。合計で10名ほどだろうか。普通の死刑事件の弁論に比べれば、少しは多くの記者が傍聴に来ているようだ。
 そこまで法廷を見渡し、気付いた。「被害者遺族」が一人もいないのだ。最高裁でも、遺族席は割り当てられる。実際に、遠方から被害者遺族が傍聴に訪れることも、多く見られた。例えば、2001年に発生した武富士放火殺傷事件では、青森の事件だったにもかかわらず、被害者遺族は遠方から傍聴に訪れている。しかしこの法廷には、「被害者遺族」は不在であった。
 伊藤の一審公判では、「被害者遺族」が大挙して傍聴に押し寄せ、法廷の席の三分の一ほどを占領していた。ボキボキと指を鳴らし、被告を威圧していることもあった。「被害者が遺族にとって大事な存在である」ということを、アピールしていたようだ。
 しかし、控訴審公判では、傍聴に訪れた遺族は二人だけ。金文夫の甥のK・Kと、良亮と同年代の文夫の愛人であるK・Aの二人である。このうちK・Aは、松原の控訴審の最初の頃に顔を見せただけで、すぐに傍聴に来なくなった。K・Kも、控訴審の傍聴には来ないことも多かった。しかし、最高裁の法廷には、そのK・Kも在廷していなかった。
 13時20分ごろ、法廷内で職員が、傍聴人に注意を申し渡した。裁判長は静かに。裁判長らが入退廷するときは、起立して礼を。カメラで二分間の撮影がある。そんな内容だ。この注意も、最高裁で慣例化された儀式の一つである。
 13時25分、若い女性職員が、バーの中にある出入り口から法廷内に出てきた。
「間もなく開廷します」
 それだけをアナウンスすると、ぺこりと一礼し、バー内部の出入り口へと引っ込んでいった。わざわざ法廷内にいない職員が出てきて、アナウンスすることなど、これまではなかった。一体、何のために出てきたのだろう?やはり、本日の最高裁の儀式には、随分と贅肉が増えているようだ。
 13時28分、ようやく裁判長たちが入廷した。
 裁判長は、眼鏡をかけた白髪の、厳めしい顔立ちの老人だ。裁判官は、四名である。私から見て左側から一人目は、眼鏡をかけ、髪を七三分けにした老人。四角い顔の持ち主だ。二人目は、髪の短い初老の女性。裁判長を飛び越して三人目は、白髪の赤ら顔の老人。四人目は、どこか不機嫌そうな顔立ちの老人だ。眼鏡をかけており、前頭部から頭頂部にかけて禿げ上がり、残った髪は白髪である。
 裁判長は、大橋正春。裁判官は、岡部喜代子、大谷剛彦、木内道祥、山﨑敏充である。光の具合からか、パノラマにおかれた、精巧な木彫り人形のようにも見えた。
 カメラマンたちによる撮影が始められる。裁判長たちと傍聴人の後頭部を映し、その映像は夕方の15分ニュースでお茶の間に流されるのだろう。13時30分になる。二分間の撮影が終わり、カメラマンたちは退廷した。
 「カメラ、退廷しました!」
 職員が、裁判長たちに告げた。つづいて、裁判長たちの席の傍に座っていた職員が、立ち上がった。
 「松原智浩被告への、強盗殺人等被告事件を開廷します。宮田弁護人ら出頭しています!」
 それだけを告げると、また椅子に座った。彼は、この儀式の一部を演じるためだけに在廷していたのだろうか。 ともあれ、松原智浩の最高裁弁論が、ようやく開廷となる。傍聴券を配られてから開廷まで、およそ35分。裁判長が、重々しく口を開く。
「弁護人、上告趣意書、補充書、再補充書の上告趣意を陳述しますか?」
「はい、陳述します。」
 弁護人の一人が、立ち上がって答えた。すでに提出された趣意書を「陳述する」と答えることで、陳述したものとして扱う。
「他に陳述することがあれば、この場で述べてください」
 裁判長が促す。これも、最高裁で弁論を開始する際の、慣例化された儀式だ。
「それでは、30分述べさせてください」
 そして、弁護人の弁論が開始された。

 7月15日、松原智浩の最高裁弁論を傍聴した。
 いずれ詳細な傍聴記にまとめるつもりだが、簡単に言えば、松原の弁論は平均的な死刑事件の弁論同様に進み、終った。
 裁判員裁判では、初の死刑事件審理だからか、最高裁は相当にピリピリしていたようだ。最高裁の公判では、職員のアナウンスや傍聴の際の注意など、煩雑な儀式がある。この日は、その儀式がさらに複雑になっていた。しかし、最高裁の緊張ぶりとは裏腹に、あっけない終わりだった。
 最高裁では被告人が出廷しないので、法廷内に松原の姿はない。しかし、遺族も一人として法廷に姿を見せていなかった。
 弁論は13時30分に開始され、14時10分に滞りなく終了。時間は40分程度であり、最高裁の死刑事件弁論としては、標準的な長さである。判決期日は追って指定することとなり、閉廷した。
 弁護人は、松原を高裁から担当している二人の女性弁護士だ。検察官は、役人然とした風貌の、堅物そうな中年男だった。
 弁護人の弁論は、熱意がこもっており、時折涙声になっていた。二人が、絶対に松原を死刑にしたくないと思っており、誠実に弁護を行っていることは疑いえない。しかし、内容は控訴審の主張とあまり変わらないものだった。最高裁は法律審であり、新たな証拠が出てこない限り、新たな主張を行うのが難しいのだろう。
 検察官は口調に熱意がなく、だらだらとした話しぶりで、手短に弁論を終えた。控訴審までの判決文などを切り貼りしたような、空疎な内容だった。朗読にあたって、金良亮の名前を間違えてさえいた。
 ただ、一点だけ看過できない発言があった。金父子の生活を『平穏に暮らしていた』と評したことである。
 金父子はヤミ金を経営して多くの人々を苦しめ、自殺に追い込み、さらには宮城を殺害した。被告たちを監禁同様の状態におきながら、経済的に搾取し、暴力と恫喝で酷使していた。
 検察官にしてみれば、弁論の際の慣用句を惰性で使っただけであり、悪意などなかったのかもしれない。
 それでも、金父子の生活が、問題のないものであったと聞こえることに変わりない。被告たちを含めた金父子の被害者に対し、あまりに冷酷な言葉である。そして、人の生死に直結する裁判での、そのような鈍感さが理解できない。

 松原の判決はおそらく、9月ぐらいになるのだろう。言い渡しは、1分に満たない時間で終わると思われる。
 その1分で、どのような言葉が裁判官の口から出てくるのか・・・。
 

 2014年7月2日、東京拘置所にて伊藤和史と面会をした。
 以前面会してから3か月ほど間が空いてしまったが、伊藤は変わらず元気そうだった。やせ気味の顔にうれしそうな表情を浮かべ、私を迎えてくれた。夏だからか、袖をまくりあげた半袖シャツ、短パンという格好だった。
 しかし、笑顔は長く続かなかった。この日の最初の話題は、松原の上告審弁論だったからだ。伊藤は5月中に今村弁護士から、弁論期日について教えてもらっていた。それ以来、伊藤も松原の裁判の行方を気にかけていた。
 「松原さんの減刑嘆願のことを、ずーっと考えていたんですよ」
 ふと、言葉に関西弁のアクセントが混じっているのに気付いた。伊藤は関西生まれだったが、長野に連行されてから、関西弁で話す機会がなかったらしい。法廷でも、関西弁を聞いたことはない。言葉のかすかな変化は、真島の家の呪縛から、精神的に解放されつつある兆しかもしれない。伊藤は拘禁されることで、かえって自由を得たのか。ならば、真島の家での生は、死刑囚としての生よりも自由がなく、恐怖に満ちていたということだ。
 伊藤は、話を続ける。松原を助けるために、自分も何かしたいと思っていた。そのために、動こうともしているようだ。
「池田さんにも、松原さんを助けようと手紙を出すつもりだったけれど、怒り出すかもしれないとも思うので、そっとしておこうと思います」
 それまでは、流暢にしゃべっていた。普段は人と話す機会が少ないため、面会では饒舌になる。しかしこの時は、視線を宙に彷徨わせ、しばし言葉を途切れさせた。話すべき内容は解っているが、それをうまく纏められない様子だ。言葉が見つからないのではない。感情が溢れ、言葉をうまく整理できない。そんな様子。
 しばらくしてから、伊藤は、言葉を続けた。
 「池田さんが、助かっている。松原さんが助かってくれたら、僕も気持ち的には助かります」
 私は、返す言葉が見つからなかった。松原は、食事を与えられない伊藤のために、実家から餅を持ってきたこともあった。真島の家での監禁中、そのような好意は身に染みただろう。信頼できると感じ、共に苦しんできた間柄だからか、伊藤は松原を犯行に誘ってしまった。松原の死刑確定を、自らの責任と感じているのか。
 「もしも二人とも確定してしまったら、二人の内、どちらかががんばらないと。松原さんは、あまり動きそうにないと思う」
 表情はやわらかかったが、声には切迫感が滲んでいた。伊藤の懸念は当たっているように思えた。松原は、裁判の時点から、自らの犯罪被害や事実関係について、言及することに消極的だった。面会をした支援者の話によれば、再審請求についても、消極的であるらしい。私自身、何とか説得できないかと思ったが、交流を絶たれている身では説得は不可能だろう。現在交流している支援者が、説得に成功することを、祈るしかない。
  「松原さんの命を、大切にしたい」
 伊藤は、私の目を見つめ、言った。私は、言葉を返すことができず、頷くしかなかった。
 私が松原にできることは、ただ祈ることだけだ。では、伊藤に対しては?

 松原についての話のあとは、伊藤の近況に話題は変わる。伊藤は最近、北九州連続監禁殺人事件について書かれた本を読んだらしい。その中で、無期懲役が確定したO・J受刑者と自分の状況が、似ているのではないかと言っていた。
 北九州連続監禁殺人事件とは、松永太死刑囚がO・J受刑者とともに、O・J受刑者の家族ら7人を殺害した事件である。被害者人数や残虐性もさることながら、松永死刑囚が通電などの拷問と脅迫でO・J受刑者と被害者たちを支配し、互いに殺し合わせた点で、常軌を逸した事件だった。O・J受刑者は、七人に対する殺人および傷害致死で有罪となったにもかかわらず、死刑を免れた。松永死刑囚の常軌を逸した虐待と拷問により、逆らえない精神状態であったことが考慮されたためだ。
 確かに、伊藤も、暴力と恐怖による支配から、限られた行動しかとることができなかった。心神耗弱こそ認定されなかったが、精神鑑定でも、それは認められていた。二人とも、精神的に強い拘束状態にあり、行動が制限され、事件へとつながった。その意味で、伊藤の精神状態はO・J受刑者に似ている。
 ただ私が思うに、O・J受刑者と伊藤には、一つの大きな相違点がある。伊藤は同じ立場にあった者たちと互いに殺しあわされたのではなく、自らを虐待する者を殺害した。北九州の事件で例えるのならば、O・J受刑者が松永死刑囚を殺害した、という場合に近いかもしれない。それを考えるとき、O・J受刑者と伊藤の刑責は、異なってくるのではないか。
 近況について話をするうちに、面会の終了が伝えられた。面会時間は15分程度か。あっという間に過ぎてしまった。東京拘置所は、ほかの拘置所と比較して、収容者が極端に多い。そのためか、面会時間は随分と短くなってしまうこともある。
「わざわざ足を運んでくれて、ありがとうございます」
「お体にお気をつけてください」
 伊藤は感謝の言葉を述べながら、何度も手を合わせ、礼を返してくれた。私はそれを見て、長い間連絡が取れなかったことを、申し訳なく思った。伊藤は、人と接触する機会が少ない。そして、松原の最高裁弁論が近づいている今こそ、最も誰かとつながりを持っていたいのかもしれなかった。
 『多弁は、不安の表れです』
 伊藤の精神鑑定を行った、証人の供述が頭をよぎった。
 私は、再会と手紙を出すことを約束し、礼をして面会室から退出した。扉が完全に閉まるまで、伊藤の姿を見つめていた。

 松原智浩の被害状況について記述する。
 ここに書かれた内容は、松原の一審・二審判決、控訴審公判における被告人質問と、伊藤の地裁公判時に証人として出廷した際の、松原の証言に依拠している。松原とは現在、交流が途絶えており、本人に詳しい状況を確認することができない。実際には、ここに書かれているよりも酷い目にあっている可能性が高い。
 そして私は、真島の家での苦痛を十分に理解し、伝えるほどの、想像力も筆力も有していない。以下の記述は、それらの制約のもと、本来の残虐さが希釈されていると考え、読んでいただければと思う。

 松原智浩が金父子と同居するようになったのは、平成16年からである。松原は、前科前歴は、金父子と出会うまでは全くなかった。工業高校卒業後は、まじめな配管工としてキャリアを積んでいた。
 きっかけは、金父子から強制的に借金させられたことだ。松原は独立して起業しようと考え、金融機関から事業資金を借りた。しかし、金文夫はその借金を勝手に返済し、松原に強制的に債務を作らせた。加えて、松原の友人は事業資金を持ち逃げしてしまい、松原は返済に窮することとなった。
 金父子に追い込みをかけられ、返済を確約させられた。そして、金父子のもとで働いて返済をさせられる契約となり、真島の家に捕らわれることになった。
 真島の家で働かされている間は、借金の天引き、部屋代、食事代を給料から差し引かれ、手取りは1~2万円しかなかった。このほかに、金父子の誕生会の会費、懇親会の会費などの名目で、金銭を支払わされることもあった。また、借金返済が終わった後でも、借金の天引きと称して給料から数万円を差し引かれていた。松原は、月4万3千円ほどを返済させられており、5年間で返済が終わる約束だった。しかし、実際には事件時まで、6年間ほど支払わされていた。
 金父子からは日夜、面白半分に殴られるなどの、暴力を受けていた。良亮からは、面白半分に鉄パイプで殴打され、胸の骨を折られたこともあった。そのほかにも、頭を殴られる、ハンマーでヘルメットの上から殴られる、電動工具で殴られる、といったこともあったようである。
 文夫は、松原を労働力として酷使するだけではなく、自分の力を誇示するための道具として使いたいとも考えていた。そのため、松原に、背中の一面に刺青を入れることを強制した。松原は何度も断ったが、金父子に逆らうことができず、結局は背中一面に、鳳凰の刺青を入れさせられた。
 どこかに出かけるにしても、常に報告が義務付けられ、プライベートな時間も管理された。報告を忘れると、「そんなんやからお前出世せえへん」「生きとってもしゃあないな」などと馬鹿にされた。金父子との食事や、強制的に参加させられるイベントでは、常に金父子の顔色をうかがい、カラオケをうまく歌い、宴会芸をやらねばならなかった。なお、金父子はイベントの度に、参加者にプレゼントや高額の祝儀を要求していた。
 良亮は、夜の街で飲み歩き、通行人に喧嘩を吹っ掛けることが頻繁にあった。松原は喧嘩を止めようとしたが、逆に巻き込まれて殴られることも多かった。

 金父子と顔見知りのヤクザさえも、「よくやっているね」と同情するような生活。「最低限度の文化的生活」「人間的生活」という言葉が、むなしい絵空事としか思えないような、過酷な生であった。
 松原自身は、あまりにひどい暴力に長年にわたりさらされ、麻痺してしまった面もあるのかもしれない。会長からの暴力について伊藤の弁護士から尋ねられ、答えた際に「その程度です」と付け足していた。弁護士は驚いたような表情で「その程度ではないでしょう!大したことです!」と言い返した。
もちろん、松原はこのような生活から逃れたいと考えていた。だが、松原は長年にわたり真島の家に捕らわれてきた人間である。債務追求から逃げた友人の家族が、どれほど酷い追い込みをかけられたか、間近に見てきた。松原の友人も、金父子から逃げ出したほかの債務者も、家族や恋人を捨てて逃げたからこそ、逃げのびることができた。現に、事業資金を持ち逃げした松原の友人の親には、金父子の追い込みが行われている。松原は、自分一人だけ助かり、家族を苦しませることなどできなかった。ただひたすら、金父子の暴力に耐えていた。

 しかし、真島の家での暴力に、さらなる恐怖が加わった。
良亮は、あるパーティーの最中、「お前、調子に乗るなよ、殺されたいのか」と、突然言い出した。伊藤に事情を聞いたところ、伊藤は、良亮が宮城を殺したことを、話した。松原は、事実を知りたいと考えたのか、倉庫まで案内してもらった。
 その時にどのような感情を抱いたのか、松原は控訴審の法廷では述べていない。しかし、その死体の臭いについて、「何とも言えない臭いがしました」と、語っている。それ以上は思い出すに耐えられず、とても語れないようだった。
 法廷で見る松原の言動は、朴訥であり、実直な職人という印象を裏切らない。少しでも客観的に、知る限りの事実を述べようとしている。しかし、宮城の死体を見た場面について語った声は、かすかに震えを帯びており、早口になっていた。

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