伊藤和史獄中通信・「扉をひらくために」

長野県で起こった一家三人殺害事件の真実。 そして 伊藤和史が閉じ込められた 「強制収容所」の恐怖。

2014年04月

控訴審においては弁護人の請求により精神鑑定が行われ、鑑定書と鑑定人の証人尋問が採用された。小林正信氏が鑑定人となった。2013年7月16日、東京高裁で行われた証人尋問をもとに、記述する。
 
結論から言えば、伊藤和史は犯行時、心神喪失や心神耗弱ではないものの、心理的視野狭窄の状態にあった。

この症状は、統合失調症と違い、心そのものが変異するわけではない。しかし、いくつかの行動選択肢があっても、一つしか選ぶことができなくなる。意識が一点に収束してしまい、他の行動をとることができない状態である。
この一つの選択肢以外は、判断において切りおとされているため、他の選択をすることはできない。しかし、この集中している一点についてだけは、ある程度は合理的な行動をとることができた。いわば、コップの中を覗いている状態であり、そのコップの外の事柄については考えが及ばず、合理的な行動をとることができない。

伊藤は、殺害前に被害者の食事に睡眠薬を入れ、殺害を容易にしている。また、同じく真島の家にとらわれていた共犯者に、事件について相談している。しかし、これらの行動は、コップ内の出来事であったから、思いつくことができた。
妻子に犯罪被害について相談をすれば、妻子に災いを招きかねない。警察は、ヤミ金の債務者が相談しても金父子の捜査をせず、つながっている様子であり、あてにならない。このため、家族にも警察にも相談することができなかった。同時に、真島の家以外の人間に相談することは、視野狭窄によって形作られたコップの、外の出来事だった。

 心理的視野狭窄となる理由は、相手からの暴力、疲弊性抑うつ、マインドコントロール、集団ヒステリーである。このうち一つでも欠けていれば、視野狭窄にはならなかった。
 伊藤は宮城と良亮に監禁され、経済的に搾取されるだけでなく、グラスで頭を割られる、ガラス片で腹を刺されるなどの犯罪被害を受け、腸が出るほどの重傷を負うこともあった。さらに、金良亮に殺人を見せつけられ、それはトラウマとなった。その後は、一家から痣が残るほどの暴力を振るわれ、殺害をちらつかされた。体重が10数キロ落ちるほどのストレス。苦しみを顔に出すなどの感情表現さえも、自由にできなかった。悲しみを表に出せば、金父子は不機嫌になり、暴力を振るわれる危険があったからだ。このように、伊藤は異常なまでの暴力を、長期間にわたり受けている。この暴力と心理的拘束は、マインドコントロール状態を生んだ。
さらに、理不尽な暴力と行動を支配する心理的束縛により、心理的な疲労が蓄積され、疲弊性抑うつにつながった。伊藤の疲労は、山で遭難したと同様の状況であり、もうろう状態だった。
 最後の仕上げとして、自らの言葉により殺害の決意を固めていく共犯者たちを見て、集団的ヒステリーが発生したとのことである。

 当初は、伊藤もいくつかの選択肢を検討した。その最大のものは、自殺である。伊藤は、2009年に自殺を図ったが、妻の声を電話で聞いて、決心が萎えたことがあった。また、自分が自殺すれば、妻子が金父子に捕らわれてしまうのは、目に見えていた。自分を包み込むように愛してくれた妻子を、苦しませたくはなかった。そのため、ある時点までは常軌を逸した暴力に耐え続けていた。
警察に相談しようとも考えたが、金父子と警察との親しげなやり取りに、その気も萎えてしまった。また、幼少時に虐待にさらされたこと、良亮による犯罪の主犯格であった宮城から、異常な暴力を受けたことにより、「暴力に逆らっても解決することはできない」という、学習性無気力と呼ばれる心理状態にあった。これらの外的要因が、殺害以外の選択肢をつぶした面もある。
 事件の前年、「妻子をバーのホステスとして、強制的に働かせてやる」と金父子から脅されたあたりから、漠然と計画を思浮かべていたが、事件の一週間ほど前から、だんだんと事件だけの一点に集中していった。
この収束していった理由は、殺害について相談した際、他の共犯者が殺害に否定的ではなかったからだとのことである。前年から計画を考えてはいたものの、まずありえない、という思いがあった。しかし、共犯者が自分と同じ境遇であり、殺害に否定的ではないのを見て、意識が殺害という一点に収束していった。

 伊藤和史の事件当時の精神状態について、公判傍聴記をもとに書き出してみる。以下は、2011年12月14日に行われた、長野地裁での証人尋問をもとに記述したものである。

 長野地裁においては弁護人の請求により心理鑑定が行われ、鑑定書と鑑定人の証人尋問が採用された。鑑定人は、TVに出演し、『かれらはなぜ犯罪を犯したか』などの著書がある、森武夫氏である。
 森証人は、東京大学の心理学部を卒業している。長年にわたって家裁調査官を務め、最高裁事務官に就任したこともあった。大学では25年間務めた。最後には、名誉教授となっている。犯罪心理学、家族心理学を専門として、教鞭をとっていた。情状鑑定の経験は、30件以上ある。裁判所、ないしは弁護人から依頼されたものとのことである。

 鑑定結果の概要は、以下のようなものであった。
 良亮が宮城を射殺した光景は、伊藤のトラウマとなっている。伊藤の現状は、不安による適応障害の項目に合致している。この適応障害は、主にストレスにより発生し、ストレスを与えたものが存在しなくなったからと言って、容易に回復はしないとのことだ。また、この適応障害は、PTSDの原因にもなりうる。森氏は、伊藤がPTSDに罹患している可能性もあると証言している。

 伊藤は、真島の家では、終始暴力を振るわれ、威圧されていた。暴力を受ける程度は、一番ひどかった。賃金はもらえずに、3時間の睡眠しか許されないような過剰労働をさせられていた。つらい、苦しいといった感情表現も許されなかった。楽しそうに笑っていることを強制された。行動の自由の制限もひどく、伊藤が大阪の自宅に帰ろうとしたときにも、良亮が自宅までついてきて、その動向を監視していた。

 良亮は頻繁に宮城殺害に言及し、「お前もああなってもええんか」と、伊藤を脅迫していた。そのため、伊藤には恐怖に加え、対人不信が生じた。それは、弁護士に対してさえも同様だった。
今村弁護士は、地裁段階から上告中の現在まで通して、伊藤を担当している。伊藤が受けた犯罪被害の凄惨さに同情したこともあるだろうが、今村弁護士の誠実さの表れでもあるだろう。伊藤はその今村弁護士に対しても、最初に面会した際には、非常に警戒していた。自分を守ってくれる人間だと説明されても、なかなか信用しなかった。不信感の強さをうかがわせる。
 真島の家では、終始見張られている感じがしており、トイレしか安心できる場所がなかった。精神不安定から入眠幻覚が生じ、他の人には見えないものが見え、聞こえない声が聞こえた。居ないはずの人の声が聞こえ、動物の幻視があった。
自らを否定され、「それだから出世できない」、「生きている価値がない」などと侮辱され続けることで、自信喪失にもつながった。モノの長さについても、他人に計ってもらわなければ、自分の測定が正しいか自信が持てないほどだった。

 伊藤は金父子に強い恐怖感を抱き、抵抗しても無駄ではないか、という心理状態にあった。そのため、一人ではとても踏み切れなかった。しかし、共犯者の話を聞き、同じ気持ちの人がいると知り、事件へと気持ちがシフトしていった。動機については、理不尽な犯罪被害を加える金父子への憎しみがあったが、それ以上に、不安や恐怖の対象を消したい、という思いが強かったと分析している。愛する家族のもとに帰りたい、自由になりたい、そのような思いが強かった。

 伊藤は追い詰められた心理状態であったため、犯行計画について、細かい点まで検討ができる状態ではなかった。失敗したらどうしよう、と考える余裕さえなく、ハルシオンで眠らせた後に会長や専務が起きてきたらどうする、という予想すら行えなかった。

 精神医学には、DSMマニュアルという、診断基準をまとめた手引きがある。このDSMの中にはGIFという精神機能の評価尺度がある。尺度は10段階に分かれており、数値が大きくなるごとに、精神機能が低下するとされる。1が健康状態、10が責任無能力の状態である。8か9で限定責任能力となり、伊藤の場合は7に該当した。限定責任能力に非常に近い状態であった。

 本件犯行は必ずしも冷血非情と言えるものではなく、一般人であっても同じ境遇に立たされれば、かなりの割合で殺人を行うのではないか。
 それが、森氏の真島事件についての結論であった。

本当に、楠見有紀子は天使だったのだろうか?
 
 金良亮の内妻であり、「被害者」の一人である楠見有紀子は、法廷で、天使の如く扱われた。
 検察官は、金父子の犯罪を矮小化し、悪印象を希釈しようと努めた。しかし、犯罪自体を否定することはできなかった。
 だが楠見については、何の落ち度もないのに殺された、天使のごとき女性として扱った。
 伊藤の長野地裁における論告求刑の際には、スクリーンに楠見の結婚式での写真が映し出された。検事たちは論告を行いながら、写真に涙していたらしい。
 しかし、楠見有紀子は金父子の犯罪行為に無関係であり、何の罪もないのに殺された人間だったのか。

金父子は、ヤミ金を営んでいた。良亮は債務者相手に暴行、脅迫事件を起こし、2007年に懲役二年六か月の執行猶予判決を受けている。この有罪判決を機に、金父子は金融業者の免許を取り上げられた。金父子は犯罪をやめるのではなく、発覚を免れるため、より隠微な方法を採用した。
 質屋を表看板にし、質草に対して融資を行うという建前で、実質的にヤミ金に携わったのだ。金融業は、2010年6月以前の金利の上限は29.2%である(現在は20%以上の利息を取ると、罰せられる)。しかし、質屋はこの出資法上限金利の対象から外れており、年利108%の高い利息を取ることが可能である。金父子はこの抜け穴を利用し、質屋の体裁をとってヤミ金を行っていた。
 内妻の楠見由紀子は、自分の名義を金父子に貸して質屋の看板をかけさせ、闇金を続けることを可能にしたのだ。彼女の協力なければ、金父子が犯罪を重ねることはできなかっただろう。

また、池田薫の交際相手に堕胎させるよう、池田に働きかけていた。子供がいては、池田に奴隷的な労働をさせるのに、差し支えるからである。池田は、この言葉を聞いた時、屈辱に震えたという。
 なお、楠見は高校生の頃、大阪梅田で良亮にナンパされたことがきっかけで、同人との交際を開始した。2005年から5年間にわたり真島の家で同棲生活を送っていた。良亮が有罪判決を受けた裁判の傍聴にも行っている。良亮は少年時代から暴走族に所属しており、宮城とは、暴走族時代から先輩後輩の仲であった。良亮は楠見との交際中から、恥ずべき生活を送っていたということである。
 楠見は2007年7月、良亮が逮捕されているときに、良亮の面会に行くように、伊藤に指示している。そして、伊藤、楠見、文夫の愛人であるK・Aの三人は、長野南署に身柄拘束されている良亮と、面会を行っている。当然、楠見もK・Aも、良亮がヤミ金の債務者への傷害などで逮捕されたことを、よく知っていただろう。
 これらの事実を考慮すれば、楠見が、金父子の人間性を知らない、あるいは、犯罪性を知らない、といったことはおよそ考えられない。

  ならば、なぜ楠見の犯罪性について、立証が進められなかったか。
 一つは、被告たちが積極的に楠見の犯罪行為について、主張しなかったためである。楠見は共犯だったとしか考えられないが、彼女の殺害は、計画にはなかった。被告たちは殺害を非常に悔いており、犯罪への関与について主張しにくかった。
  もう一つは、彼女の関与について証言が可能な人が、誰一人としていなかったからだ。遺族たちは、遺影を掲げ、法廷の最前列に大挙して陣取っていた。被告や被告側の証人を睨み付け、伊藤和史の被告人質問の際には、指をボキボキと鳴らし、威嚇していた。このような状況であるため、非常に証言に立ちにくかった。
  しかし、最大の事情は、金一族の被害にあっていた人々が、圧力をかけられていることにあると思われる。松原智浩の長野地裁公判では、金父子のもとで強制労働させられていた人が、出廷するはずだった。しかし、その証人は、証言台に立つ直前に逃げ出し、行方知れずとなってしまったのだ。そのため、弁護側にとって立証が非常に困難になってしまった。松原の控訴審で出廷予定だった人も、遺族の圧力に負け、結局は証人としてではなく、自分の体験を文書として提出するにとどまった。その文書として提出したことについても、事後に圧力を受けたらしい。

 伊藤、松原、池田の弁護士は、いずれも控訴趣意書で、楠見の犯罪への関与について、言及している。池田の弁護士は、控訴審の弁論でも、『有紀子は不法行為の一部を行い、オリエンタルグループと関係があった』と言及している。しかし、上記のような事情から、十分に主張を尽くすことができなかったのである。
 検察官、裁判官、裁判員は、彼女を無垢な天使であるかのように美化し、死刑判決の重要な骨格とした。しかし、楠見を「天使」としたことは、「被害者遺族」による証拠隠しを追認し、金父子たちから被害を受けた人々への、二次被害を追認したに過ぎないのではないか。

 宮城事件とは、2008年7月20日、金良亮が兄貴分の元暴力団員である宮城法浩を射殺した事件のことを指す。伊藤は、この殺人を目撃してしまった。それをきっかけに、良亮への恐怖は一層強まった。そして、良亮の父であり、ヤミ金を取り仕切る文夫にも、同等以上の恐怖を感じた。
 宮城は、良亮の暴走族時代からの先輩であり、暴力団時代には兄貴分であった。共に犯罪行為を行い、伊藤を監禁して養子縁組を強要し借金させ、金蔓にしていた。まずは宮城が、伊藤を監禁し、暴力を加えた。良亮は、より多額の借金をする方法を伊藤に指示していた。住所本籍、友人知人の連絡先を握っている、逃げれば危害を加えると、宮城とともに伊藤を脅していた。
 しかし、宮城が服役する少し前から、良亮と宮城の関係はぎくしゃくし始めていた。良亮に、犯罪で得た金を多く渡すように言い、暴力に訴えることもしばしばあったらしい。事件直前には、良亮は伊藤相手にさえ、「宮城と縁を切りたい」「殺す」などと愚痴を言っていた。
 宮城は覚せい剤中毒者であり、異様な言動、理由なき暴力が目立った。牛丼を素手で食べ、ゴキブリを踏みつけても平然としていた。伊藤にガラス片で腸が露出するほどの重傷を負わせ、足を包丁で刺した。
 事件当日、良亮は刑務所から出所した宮城を、伊藤、暴力団組員のHとともに迎えに行った。そして、伊藤が車の外に出ている間に、宮城を殺害した。場所は、兵庫県尼崎市の路上、尼崎警察署のすぐ側である。
殺害時車内にいたHによれば、宮城は銃弾を撃ち込まれたときに、「痛っ」と叫んだ。
 良亮は宮城を射殺すると、「はよ(車に)乗れ、お前もこいつみたいに殺してしまうぞ」と伊藤を脅し、訳のわからずにいる伊藤を、無理やり車に乗せた。伊藤は、宮城の死体の様子について、上申書の中で次のように述べている。
『宮城さんの頭からは,血があふれるように流れ出していて,頭から顔や首などが真っ赤になっていて,宮城さんの着ている黒のジャージは,血を吸い込んで黒光りしていました』
 血の臭が鼻をつき、伊藤は吐き気を催した。そして、自らが殺されるかもしれない、という恐怖が湧き上がってきた。良亮への恐怖が一層膨れ上がり、逆らうことなど考えられなくなった。
 7月22日、良亮は、伊藤とHを連れて、父親である文夫のいる真島の家に帰った。そして文夫に、「中川(宮城)と縁が切れました」と短く報告した。文夫は、宮城と縁が切れたとはどういう意味か、という、本来であれば行うべき質問を、何もしなかった。「縁が切れた」という言葉の意味を、文夫はよく知っていたのではないか。
文夫は良亮の報告が終わるとすぐに、Hに「このまま北信ケンソウの仕事をしろ」と指示し、伊藤には「お前は月の半分、北信ケンソウでHと共に仕事をしろ。良亮を支えろ」と命じた。伊藤は、普段の言動や宮城殺害を目撃したことから、良亮に強い恐怖心を抱いていた。その良亮が平伏している文夫に、逆らうことなどできなかった。
 良亮は同日、宮城の死体を入れるコンテナボックスを買いに、長野県のホームセンターに出かけている。そして、Hと伊藤に命じ、死体をコンテナボックスに無理やり押し込んだ。最終的に、宮城の死体を車のトランクに入れ、その車ごと高田の倉庫に隠したのは2008年8月のことである。その頃には死体の腐敗が進み、トランク内は異臭が立ち込めていた。
 死体をトランクに隠した後も、良亮は倉庫を頻繁に使用していた。2008年11月には、倉庫内で車の改造を行っている。伊藤は金一家三人を殺害した後、常に良心の呵責にさいなまれ、知らないと嘘をつくことに重荷を感じていた。そのため、自発的に殺人事件を申告し、控訴審では自首が認められている。
 しかし、「被害者」である金良亮は、暴走族時代から世話になっていた先輩を殺したにもかかわらず、良心の呵責に苛まれた様子は見えない。死体を気にとめることなく、異臭を放つ死体のすぐ近くで、夢中になって大好きな車の改造に没頭していた。もちろん、ルーチンワークであるヤミ金にも、積極的に着手していた。
 宮城の死体が発見されたのは、殺害から2年近く経過した、2010年4月10日のことである。
ちなみに、良亮は、宮城への殺人、死体遺棄で、2010年8月27日に書類送検されている。

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