2018年12月27日、河村啓三と末森博也の二人が、死刑執行された。
 二人は、相場師とその秘書を強盗目的で殺害した、いわゆるコスモリサーチ事件で死刑判決を受けていた。河村は、再審請求中の死刑執行であった。裁判を受ける権利を剥奪するのは、安倍政権においてはあまりに日常的なことになってしまったようだ。そして、「犯罪被害者側に立つ」VSフォーラムも、それに賛同している。
 河村は、いくつか著書を出している。それを読んだ限りでは、自らの行為を悔い、内省を深めているように思えた。また、被害者遺族と文通を行えており、ある程度は和解が成立していたようでもある。果たして、死刑にする必要があったのだろうか?

 河村については、もう一つ特筆すべきことがある。彼自身が犯罪被害者遺族であることだ。
 河村は幼少時、慕っていた叔父を、喧嘩で殺害されていた。幼いころの河村にはそれは伝えられなかったようであるが、長じてからそれを知り、ショックを受けていた。
 犯罪者には、経済的不遇、あるいは肉体的・性的虐待と言った明らかな犯罪被害者も少なくない。そうした意味では、河村の犯罪被害者遺族という立場は、犯罪者の中では珍しくないかもしれない。
 司法は犯罪被害者遺族である河村であっても、自らの行為に完全な責任を負わせた。そして、犯罪被害者遺族の側に立つVSフォーラムも、犯罪被害者遺族である河村の死刑に、諸手を挙げて賛成している。VSフォーラムが、被害者団体の中心であった「あすの会」のフロント団体であることを考えれば、厳罰化を牽引してきた被害者団体、その周辺団体の総意と考えて良いだろう。
 今回の執行が明らかにしたのは、「犯罪被害者遺族」に対する、司法や被害者側の人間の態度の矛盾である。

 犯罪被害者遺族が死刑執行されたのは、今回が初めてではない。1999年に死刑を執行された、森川哲行という男がいた。幼くして父を殺害され、兄と共に叔父夫婦に育てられた。父を殺害した犯人は見つかっていない。彼は、間違いなく犯罪被害者遺族である。
 しかし、森川の生き方や犯罪に、共感すべき点があるだろうか?
 森川の兄はまじめに育ったが、森川自身はグレて粗暴犯を繰り返した。そして、暴力性を隠して結婚したものの、妻にDVを行うようになる。妻が離婚しようとすると、包丁をもって襲い掛かり、妻の母を殺害し、妻にも重傷を負わせた。この事件で、殺人及び殺人未遂で無期懲役となる。
 出所したものの、定職につかず、義父に説教をされても暴れるだけ。そして、入獄中から妻への憎悪を募らせていった。そして、妻の親族二名を強盗目的と元妻の行方を聞き出すために、殺害した。

 私は、犯罪被害者遺族だからといって、行為への評価に忖度をするべきとは思わない。
 河村の死刑に疑問を抱いているのは、河村の反省状況、遺族とのやり取り、再審請求中の死刑執行、という点である。それらがなければ、判決の認定が正しければ、死刑はやむを得ないであろう。
 森川については、少なくとも逮捕時までは度し難い男というほかない。執行されるまで歪んだ人間性が変わらなかったのならば、死刑は彼のような人間のために必要だったと言えるかもしれない。
 河村も森川も、犯罪被害者遺族だということを理由に、司法やマスコミ、世論からは忖度をしてもらえなかった。それは仕方のないことだ。
 しかし、伊藤の事件の「被害者」たちは、どうであったか?
 司法は、彼らの闇金、奴隷労働の強制、殺人という犯罪を、オブラートに包み、なかったことにしたいかのようであった。マスコミは、それらの犯罪行為を書こうともせず、「不当な給料の天引き」などとぼかして書き、ほぼ黙殺している。言い換えれば、司法もマスコミも、伊藤が受けた犯罪被害も、自殺に追いやられ、搾取されるなど踏みにじられた人々も、歴史の闇に葬ろうとしているのだ。何が正義か。
 河村も森川も、受けた犯罪被害自体には特段の落ち度はない。しかし、伊藤の事件の「被害者」は、自らの犯罪が原因で、反撃されたにも関わらず、最大限の忖度をされている。

 もともと被害者であった人間に殺害された「犯罪被害者」は、その「加害者」への刑の軽減という形で、その犯罪行為を評価されるのが、まっとうなあり方であろう。
 「被害者」「被害者遺族」というだけで、その行動を評価・批判せず、ひたすらに美化せねばならないのであれば、それはむしろ身分差別主義としか言えないのではないか。