2016年11月11日、田尻賢一死刑囚が、死刑を執行された。裁判員制度下で死刑判決が確定した死刑囚として、二人目の執行である。

 私は、死刑廃止論者ではない。なので、死刑制度自体については特にいう事はない。
 勿論、確実に有罪であったとはいえ、田尻死刑囚への死刑判決・執行が正当であったか、という問題は残る。しかし、私は報道や判決文の内容以上は、田尻死刑囚の事件や人格について解らない。私は田尻死刑囚と交流を持ったことはなく、裁判を傍聴したこともないからである。
 ただ、起訴から控訴審判決まで一年に満たない裁判は、余りにも拙速ではないかと思う。また同人は自首をしているが、それは量刑上、汲まれてはいないようだ。果たして、田尻死刑囚の情状は十分に汲まれ、主張を尽くすことはできたのか、疑問は残る。しかしながら、それ以上は何もわからない。
 結局のところ、死刑判決、執行の適否についても、何も言うことはできない。

 しかし、この死刑執行では、一つ異例の事態があった。犯罪被害者支援弁護士フォーラム(VSフォーラム)が、死刑執行について、声明を出したことである。
http://www.vs-forum.jp/wp-content/uploads/2016/11/36f0b7320ec6e82e74d7b3792f1a2e37.pdf
 先月、日弁連は死刑廃止を打ち出した。それに対するカウンターではないかと思われる。しかしながら、そのカウンターのためだけに、わざわざ「死刑は当然である」と声明を出すことに、釈然としないものを感じる。
 この声明の意味は、田尻死刑囚の事件の遺族が、マスコミに乞われて「死刑は当然」などのコメントを出すのとは、全く異なる。遺族のコメントは、感情の発露である。事件内容を考えると、死刑を望むのも当然であろう。しかし、VSフォーラムの声明は、政治的行為である。
 何ら落ち度のない被害者二名を、金目当てで殺害したのであるから、凶悪犯ではあるだろう。しかし、死刑執行が妥当であったとしても、人の死に事寄せて、それを肯定的に扱うことで、政治主張を行う行為には、疑問を抱く。
 なお、同フォーラムが、自らの意見を発信する場を奪われているような事実は、ありえないであろう。

 そして、この声明の主張にも、疑問を抱かざるを得ない。
 第一に、この声明には「確定した死刑判決は、全て正当である」という前提がある。それは、弁護士の態度としていかがなものか。
 声明には、『死刑判決は極めて凶悪で重大な罪を犯した者に対し、裁判所が慎重な審理を尽くした上で、言い渡されています』とある。この文が、「確定した死刑判決は、裁判所が審理を尽くしたものであるがゆえに、疑義をさしはさむ余地がない」という意味にしか読めない。
 80年代に、免田事件、財田川事件、島田事件と、死刑確定した人々への、再審無罪が相次いだ。そして、近年には袴田氏に再審開始決定がなされている。確定した死刑判決が不当なものである可能性は、否定できないのではないか。
 そして、有罪であるとしても、その判決が必ずしも正当ということにはならないであろう。随分と昔の話ではあるが、恩赦により死刑から減軽された死刑囚も、存在する。近年は個別恩赦も行われていないが、むしろ、それこそが異常な事態なのではないか。
 声明を書いたのは、犯罪被害者支援に携わっているとはいえ、弁護士である。冤罪の可能性に目を向けず、最高裁判決の正当性に疑念をさしはさまない態度は、いかがなものだろうか。
 また、「被害者支援」の立場に立つとはいえ、「確定判決は正当であり、確定すれば執行しかない」といった物言いは、いかがなものか。裁判で、事件前の情状、あるいは事件後の情状がろくに考慮されない事例は、しばしば存在する。そのような事例も存在するからこそ、執行前の審査が必要なのであり、恩赦制度も存在するのではないか。
 そして、被害者側の犯罪行為が事件原因となっている場合、そもそも「被害者」が犯罪加害者であった場合にも、被告への死刑が正しいと無条件に肯定するのか。
 もちろん、私は伊藤や松原、あるいは、数は少ないが、他の「被害者」に追い詰められて事件を起こした死刑囚を念頭に、書いている。

 なお、同フォーラムは、竪山辰美への東高裁判決に対し、以下の声明を出している。
http://www.vs-forum.jp/proposal/479.html
 東京高裁判決については、「審理を尽くした」とは考えていないのだろうか。また、竪山の無期判決は最高裁で確定したのだが、これは支持するということか。

 第二に、この声明は再審制度や恩赦制度の意義を踏みにじっているのではないか。
 この声明には、『法律に従い、執行されるのは当然のことであり、執行に反対することは法律を遵守しなくても良いと述べていることと同じことです』という文もある。
 しかしながら、死刑囚の有罪に疑問がある場合、一部でも無罪の可能性がある場合、量刑があまりにも不当である場合にも、ただ執行すべしと言うのだろうか。そのような場合のために、再審、恩赦といった制度があるのだ。
 法務大臣は再審には関与しないとはいえ、判決の事実誤認を頭の片隅に入れ、執行を審査するのが当然ではないか。また、恩赦は法務大臣も審査に加わるものである。
 法務大臣の死刑への関与の在り方は、「ただ執行すればいい」というものとは、全く異なっている。「死刑が確定したから」「法務大臣は死刑を執行せねばならないから」という理由から、機械的に執行を勧めれば、執行すべきではない人間、冤罪の人間も、機械的に死刑執行されることになるであろう。
 そして、恩赦や再審を行使することもできず、執行されてしまった場合、その執行を非難するのは当然のことだ。
 「法律の遵守」というが、VSフォーラムの声明に従えば、再審請求、恩赦、と言った法制度は、絵に描いた餅となってしまうのではないか。

 第三に、「死刑執行」が法務大臣の義務であるか否かは、議論があるところである。
 「確定から六カ月以内に執行をしなければならない」という刑事訴訟法475条第二項の条文は、訓示的規定であり、法的拘束力を持たないと東京地裁で判決が出されている。また、平成27年7月31日の国会で、安倍総理は答弁書で、次のように答えている。
 『刑事訴訟法(昭和二十三年法律第百三十一号)第四百七十五条第二項本文においては、死刑の執行の命令は判決確定の日から六か月以内にしなければならない旨が規定されているが、これは、一般に、訓示規定であると解されており、六か月以内に死刑の執行の命令がなされなくても、裁判の執行とはいえ、人の生命を絶つ極めて重大な刑罰の執行に関することであるため、その執行に慎重を期していることによるものであって、違法であるとは考えていない』
 「死刑執行」という結末をあらかじめ決定し、機械的に決定するのであれば、「執行に慎重を期する」理由など、無いのではないか。死刑執行に前向きと思われる現政府ですら、一応は執行に慎重を期する必要性を、認めてはいる。
 結局、この条文は、法務大臣に死刑執行を命じているとは解されないのではないか。少なくとも、執行の必要性を検討し、その間に執行が止まること、機械的な執行を行わないことを、許容しているとは取れるのではないか。

 最後に。
 VSフォーラムは、これから先も、死刑執行の度に同様の声明を出し続けるつもりであろうか。しかし、冤罪の疑いの濃い死刑囚が、執行される可能性もある。伊藤たちのような、「被害者」から追い詰められた者が、執行をされる可能性もある。
 また、大山清隆のような、遺族が死刑を望んでいない死刑囚も、執行される可能性がある。
 そのような執行に直面した時、VSフォーラムは、やはり同じ声明を出すのだろうか。