続いて、長野地裁の証人として出廷した、もう一人の遺族についても、少しばかり書く。

 K・Aは、事件当時29歳であり、当時62歳の金文夫の内妻であった。文夫が債務者から奪ったスナックで働いていたことがきっかけで、文夫の愛人となった。
 K・Aも、伊藤の長野地裁の公判に、検察側の証人として出廷している。2011年12月14日の公判であり、森武夫証人の後、伊藤の被告人質問の前に、証人として証言を行った。
 まずは、萩谷検察官が証人尋問に立った。真島の家は、伊藤にとって快適な環境だった、被害者たちと伊藤は仲良く暮らしていた、など、検察側の証人尋問では答えていた。また、自分も住んでいた真島の家で殺害が行われ、「足音が聞こえると怖い」と答えていた。「面倒もよく見てもらっていた。厳しくされたからと言って、殺していいのか」「会長や専務と二度と会えず辛い、極刑を望む」などと述べた。
 このように、金父子の伊藤への振る舞いについて、知悉しているかのような証言を行った。しかし、今村弁護人の証人尋問となると、それは崩れていった。
 まず、K・Aは、伊藤と勤務時間が異なっていたため、真島の家では少し顔を見るだけであった。「真島の家では、顔を見るくらいでした」と、K・A自身認めた。調書でも、『生活パターンが違うことから、家の中で顔を合わせることは殆どありません』と述べている。これでは、金父子の暴言や暴力を目にする機会は、殆どないであろう。ましてや、伊藤が最も多く暴力を振るわれていたのは、強制労働させられていた建築現場である。ヘルメットの上からハンマーで頭を叩かれ、鉄材や資材を投げつけられたのだ。殴る蹴るの暴力もあった。
 また、K・Aも、金父子の犯罪行為について、疑わしい行動があった。事件後の、真島の家からの金品や違法行為に関係する書類の移動を、手伝っていたのだ。
 まず、事件後、K・Aの部屋からは7000万円という大金が移動させられている。K・Aの声は、今村弁護士の反対尋問となってからは非常に小さかったが、この時は聞き取れないほど小さな声だった。「あと、書類を移動させましたが、それは何の書類か、ちょっと解りません。あと、倉庫の現金420万円」と、弁護人の質問に答えている。しかし、ずっと一緒に暮らしていたK・Aが、書類の内容が解らないということがあるだろうか。なぜ、慌ただしく書類や現金を移動せねばならないか、疑問を持たなかったのだろうか?
 K・Aの会長への感情についても、今村弁護士は疑問を呈した。まず、K・Aは、金文夫の事を、調書でも会話でも、一切、主人などの夫を表す呼称で呼んでいない。全て「会長」である。また、文夫と10年間ほど一緒にいたが、撮った写真はたったの一枚であった。そして、文夫の両親の名前も知らなかった。確かに、愛し合っていた内縁関係の男女としては、随分と淡泊に思える。

 なお、K・AもK・Kと同じく、閉廷後は「遺族」同士で、法廷前の廊下で笑いながら会話をしていた。今村弁護士によれば、公判後に検察庁まで移動する間も、笑いながら話をしていたようだ。控訴審では松原の公判に姿を見せたのみであり、伊藤の公判にも、池田の公判にも、一切姿を見せなかった。「大事な人」を殺された女性にしては、これまた随分と薄情な態度に思える。

 「被害者」たちや「遺族」たちの風聞について、いくつか耳にしたこともある。しかし、ここでは書くのをやめておこう。
 とりあえず、一つだけは確実に言える。
 「遺族」についての問題は、伊藤の情状面の立証を阻害することにとどまらない。事件の背景である、宮城事件や真島の家の暗部について、真相解明を阻害するものであったと言えないだろうか。
 しかし、裁判官や裁判員、検察官にとって、それは些細な問題であったようだ。彼らは、誰一人として関心を払わなかったのだから。