続いて、検察官の野口による弁論が始まった。野口の口調は、まるでパソコンの製品番号を復唱しているかのように、言葉に意味や意思が感じられないものだった。

 本件上告には理由がなく、速やかに棄却されるべき事案だが、事案を鑑み、若干の意見を述べる。
 弁護人は、事件を起こさない期待可能性がなかったと主張している。被告人が抑圧されていたことは事実だが、身体への物理的拘束はなく、妻と電話で連絡はとっていた。
 平成20年7月に宮城の遺体を遺棄するという犯罪を行っており、何を置いても自首すべきであった。それをせず、文夫親子のもとに身を置いてみすみす状況を悪化させた。
 被告人と松原は、自らの自由意思において、犯行に及んだものである。


 「人でなしめ」
 私は、思わず声に出して言っていた。
 自首すべきであった?自首を望まなかったのも、不可能にしたのも、「被害者」であり、宮城殺害の犯人である金良亮だ!
 伊藤は好きで、金父子のもとに身を寄せたわけではなく、暴力を振るわれ、脅されて同居させられたのである。そもそもの初めから、伊藤の状況を悪化させた原因は、金父子である。一体、この検察官は事件記録をまともに読んでいるのか。それとも、読んでも事件の状況が理解できないのか。

 三人を次々と絞殺し、死体を資材置き場に運んで捨てた。文夫父子殺害の動機は、文夫父子から逃れ、自由になることと、死体の運搬費を奪う目的である。有紀子は巻き込まれて殺害されたもので、いずれの動機も自己中心的である。 

 この事件の判決や検察官の発言を聞くたびに思うのだが、このような司法官僚たちに、国民の自由や人権についての判断を委ねるべきではない。その重要性について、彼らは理屈以外は何ら理解していないであろうから。
 伊藤は日常的に暴力を加えられ、罵倒され、搾取され、殺害すると脅されていた。そのような強制収容所に等しき場所から逃れようとすることの、どこが自己中心的なのか。殺害という方法が間違っているという指摘はあり得ても、迫害者を退け自由になりたいという思いは、間違っていると否定しえない。否定するのであれば、それは基本的人権と人間の尊厳を否定するということだ。

 無防備な被害者の首にロープを巻きつけて首を絞め、4~50分にわたって3名を殺害している。執拗かつ冷酷という他ない。
 平穏な生活を送っていた被害者三人を殺害し、金銭を奪っており、結果は重大である。遺族らの処罰感情は厳しく、全員が被告たちの極刑を望んでいる。
被告人は事件の発案者であり、殺害のための物品を購入するなどして入手し、自らも殺害実行を行っている。被害者らが失踪したように見せかけ、警官や、安否を心配する遺族に、失踪した旨嘘をついており、悪質である。
宮城の死体を物のように扱い、平然と暮らしており、強盗殺人を起こしている。悪質である。
罪責は誠に悪質であり、死刑はやむを得ない。
原審の判決は正当である。弁護人の上告趣意には理由がない
以上


 弁論の時間は、10分にやや満たないものであり、およそ15時25分に終わった。
 今村弁護士の弁論とは逆の意味で、検察官の弁論は異例尽くしだった。どこをとっても、虚しい定型文に満ちており、いくつかの内容は、現実と完全に祖語をきたしていた。検察官が一言を紡ぐたびに、怒りを通り越して失笑が漏れそうになった。
 法廷内を、もう一度見まわす。遺族は一人として、傍聴に訪れていなかった。弁論の間中、検察官の事務的な声は、空席を撫でていたわけだ。
 それにしても、被害者たちが「平穏な生活」を送っていたというのは、恐れ入った。その「平穏な生活」は、伊藤たち被害者を無給で酷使し、幾人もの債務者の人生を破滅させ、自殺に追い込み、奪い取った生活である。それを完全に閑却している。
 宮城の死体遺棄についても同様だ。数年間、死体を物のように放置し、死体のそばで車の改造に熱中していたのは、金良亮である。伊藤は、その良亮に命じられて逆らえず、死体を捨てるのを手伝っただけだ。
 殺人者であり死体遺棄の主犯でもある男から、日々抑圧され、苦しめられる生活を、「平然と暮らしていた」などと形容するのも、あまりにも異様な言葉ではないか。

「双方、これ以上ありませんね」
 裁判長は、今村弁護士に尋ねる。弁論の間、裁判官たちは、机上に置かれた弁論を俯きがちに見ていた。その表情から、思いは読み取れない。
「ありません」
 今村弁護士は、硬い表情で答えた。
「判決期日は追って指定する。終わります」
 裁判長の声とともに、野口検察官は、そそくさと法廷を後にした。その時、初めて表情を見ることができた。どこか不満そうな、面倒な仕事を任せられた、とでも言いたげな表情だった。
 そして、私たち傍聴人も、職員に追い立てられて、法廷を後にした。止まりたいとも思わない。ここも、真島の家とは別の、鬼の窟にすぎない。
 異なるのは、手段と動機だけだ。文夫父子らは暴力で人生を奪ったが、司法官僚たちは、理屈と言葉で生命と尊厳を踏みにじった。金父子らの動機は下劣な欲望であったが、司法官僚たちの動機は、無感覚と二つの「神」への盲信である。
 『ようやく暴力から解放されたかと思えば、今度は宮城からの暴力が始まった。文夫親子からも暴力を受けた。そして、死刑が確定すると、やがてこの国から命を奪う暴力を受けることになるのです』
 伊藤の人生は、鬼の窟を盥回しにされただけで、終わってしまうのか?それが、正義だとでも?伊藤が己や家族を守るために行った行為は、正当防衛や死刑と比較し、そこまで救いがたく邪悪だというのか?
 だが、それでも、私たちには待つことしかできない。