「ゲコ、ゲコ、ゲコ、ゲコ、ゲコ、ゲコ・・・・・ゲコ、ゲコ」
 夜になると、一斉に鳴き出す蛙たち。
 暖かい春から暑い夏へと向かう時期。
 蛙の一斉の鳴き声が子どもたちの泣き声を思い出させる。
 私が3歳の頃、母にある場所へ連れて行かれた。
 母と一緒に、その扉の前に立つと、子どもたちの激しい泣き声が聞こえた。
 母は何を想い詰めていて、すぐに扉を開くことはなかった。
 やがて、母が扉を開くと中に入り、私も後に続いた。
 そこは当時の私くらいの子どもたちが、何かそれぞれの想いを伝えるように一斉に泣き叫んでいた。
 「あ゛ーん゛、お゛があ゛ーざーん゛。う゛ーあ゛ーん。」
 「ぎゃー、お゛どお゛ーざーん゛。」
 子どもたちは、顔を真っ赤にして声まで嗄らしていた。
 まるで真っ赤なリンゴのオバケだ。
 私は、その状況に圧倒されて目が離せず、棒立ちになった。
 何が起きているのか、解らない。
 当時の私の思考で、『泣く』という行為は、自身にとって嫌いなことか怖いことくらいにしか解らない。
 どのくらいの時間、そのままの状態だったのか忘れてしまうくらいだった。
 そして、私が落ち着きを取り戻した時には・・・私の隣に母はいなかった。
 私の手には、唯一、母から買ってもらった黄色の車がひとつ。
 大人の掌サイズくらいのブリキで作られた、ウォルクス・ワーゲンのビートルのような形の車。
 それを大切に自分の胸に抱いて、私は何度も何度も地団駄を踏みながら、みんなと同じように必死に泣き叫んだ。
 「お゛があ゛ざーん゛」
 と何度も・・・。
 みんなが泣いている意味をようやく理解できた。
 突然にいなくなって以来、母は戻って来ない。
 それ以来、私は親と子が離れるのを見る側になった。
 何度も見てしまった、親子の別れる場面を。
 「ちょっと、待っててね」
 「ママ、お買い物に行ってくるから」
 「お父さんが帰ってきたら、ゾウさんやキリンさんを見に行こうな」
 「おりこうさんにしててね」
 色々な言葉で親が自分の子どもに安心させるようなことを言う。
 私の時みたいに突然にいなくなることもあれば、その言葉を聞いて駄々をこねる子もいたり、その言葉を信じておとなしくしている子もいた。
 ただ、みんなと共通することは、初めて扉を開けて中に入った時の状態。
 たくさんの別れる場面を見て、一番の衝撃的なことがあった。
 親が突然に泣き出すと、自分の子どもに言った。
 「サヨナラ・・・」
 何かを覚悟しているかのように。
 そして、時分の子どもから離れていく親。
 そんなことが数少なかったけど、あった。
 当時に入所したばかりの私には、その『サヨナラ』という言葉は知らなかったけど、何度も別れを見ていくうちに『サヨナラ』の言葉と意味を覚えた。
 今でも想う・・・恐ろしい呪文。
 その場所に訪れる子たちは、一か月間ほど泣き続けていると自然にその環境に慣れてくる。
 私も同じだった。
 一人が泣き叫ぶと、蛙のように一斉に泣き叫ぶ。
 そして、泣き疲れてそのまま眠ってしまう。
 そんな繰り返しの毎日。
 ある日、私の名前を呼ぶ大人の女性が私の様子を見に来る。
 「和史。和史。」
 先生が私に母が来たことを説明してくれる。
 しかし、私は母の顔を忘れてしまい、喜び感情が出てこない。
 母がいなくなって以来、唯一、母から買ってもらった黄色のブリキの車が母の代わりになっていたから。
 だから、逢いに来ても喜びなんてなかった。
 離れて行っても寂しさなんてなかった。
 それに一緒に居る子たちが、家族だったから。
 その後、私が5歳の時に母が私を迎えに来た。
 私は、母が突然にいなくなったあの時のように何度も地団駄を踏みながら泣き叫んだ。
 一緒に生活をしたみんなと別れることが何よりもつらかった。
 寂しい時や悲しい時は一緒に泣いたし、楽しい時は一緒に笑った。
 みんなで、いつも同じ気持ちになったから・・・だから、みんなと離れたくなかった。
 それに、顔の知らない・忘れてしまった母のところに行くのが怖かった。
 私が泣き叫べば、みんなも泣き叫ぶ。
 そんな誰かが別れの呪文を言った。
 「サヨナラ」
 ・・・サ・・ヨ・・ナ・・ラ・・・

                                                             Kazu
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