「日本の裁判は長い」
 かつて、盛んに口にされていた言葉だ。
 20世紀末には、それも間違いではなかった。しかし、21世紀の裁判に当てはめるのであれば、事実に反している。
 ゼロ年代後半から、裁判の審理時間は、大幅に短縮されてしまった。死刑事件であっても、同様である。ことに、裁判員裁判が開始されてから、その傾向は顕著となっている。

 この項では、最高裁での審理期間を見ていきたい。

 先日、藤城康孝被告の最高裁弁論期日が、2015年3月27日に指定された。
 藤城康孝は、2004年に積年の恨みから自分の血族7人を殺害。2009年に神戸地裁で死刑判決を受ける。高裁では再度精神鑑定が行われ、心神耗弱という鑑定結果も出たが、2013年4月26日に控訴棄却。つまり、控訴審判決から1年11か月で最高裁弁論が指定されたのだ。
 おそらく、4月末か5月上旬に、最高裁判決が出るであろう。控訴審判決から上告審判決まで、丸2年程度である。死刑事件としては、上告審判決まで異例の短さだ。
 
 21世紀のゼロ年代前半までは、死刑事件の裁判ともなれば、控訴審判決から上告審判決まで、最低でも4年かかり、5年~8年程度かかる事件も希ではなかった。
 しかし、2005年からは、オウム事件や一部の争点の多い事件を除き、2年数か月から3年数か月で、最高裁の審理は終了するようになった。それでも2013年までは、ほとんどの死刑事件の上告審は、3年以上の時間をとって審理していたのだ。
 以下は、2010年代に上告棄却された死刑事件被告たちの、上告審期間である。

 2010年・・・合計7人。3年以上、6人(うち1人は、あと十数日で丸4年)。2年以上、1人。
 2011年・・・合計20人。5年以上、3人。4年以上、6人。3年以上、10人。2年以上、1人。
 2012年・・・合計6人。4年以上、2人。3年以上、1人。2年以上、3人(うち2人は、あと十数日で丸3年)
 2013年・・・合計5人。3年以上、5人。

 このように、2013年までは、上告棄却まで3年未満の被告数は少ない。
 2014年以降、上告棄却により死刑が確定した被告たちの、最高裁での審理期間はどれほどであったか。

2014年
小川和弘・・・2011年7月26日、控訴棄却。2014年3月6日、上告棄却。約2年7か月。
矢野治・・・2009年11月10日、控訴棄却。2014年3月14日、上告棄却。約4年4か月。
小泉毅・・・2011年12月26日、控訴棄却。2014年6月13日、上告棄却。約2年6か月。
松原智浩・・・2012年3月22日、控訴棄却。2014年9月2日、上告棄却。約2年5か月。
奥本章寛・・・2012年3月22日、控訴棄却。2014年10月16日、上告棄却。約2年7か月。
桒田一也・・・2012年7月10日、控訴棄却。2014年12月2日、上告棄却。約2年5か月。

2015年
加藤智大・・・2012年9月14日、控訴棄却。2015年2月2日、上告棄却。約2年5か月。

 2014年に死刑確定した被告は、6人中5人が3年に満たない期間で、上告棄却されている。矢野被告は、弁護士を解任したために審理が長引いたものであり、本来であれば前年の10月か11月に刑が確定していたであろう。例外を除けば、審理期間の短縮化は歴然としている。
 そして、裁判員裁判で裁かれた3人の被告、奥本、桒田、そして、伊藤の共犯者である松原は、いずれも2年数か月の期間で上告棄却されている。
 上告審での審理期間は、2年数か月未満。それが裁判員時代の新しい基準と考えるのは、穿ちすぎだろうか?

 それにしても、審理期間を短縮して、どうなるというのか。
「裁判に時間をかけるなど、税金の無駄だ」
「被害者の事を考えれば、早く終わらせてしまえ」
 という声も、あるかもしれない。刑事訴訟法で認められている上告理由には「刑の量刑が著しく不当であること」も、含まれている。量刑についての争いは、正当な上告理由である。そして、死刑は究極の刑罰であり、濫用すべきではない。これらを鑑みれば、今一度、量刑判断に際しても、慎重に行うようにすべきではないか。

 少なくとも近年、死刑判決を受けているのは、利欲目的、性犯罪などの動機で殺人を行った者だけではない。真島事件の被告程でないにせよ、被害者側の犯罪が事件の原因となっている事例も、散見される。殺害という手段が正当化されないにせよ、そのような事件まで「被害者の事を考え」迅速に死刑を選択する行為は、「被害者」の犯罪を矮小化する、不公平な態度と言えるだろう。
 「加害者は、被害者に殺されたわけではない」という人もいるかもしれない。しかし、死刑は究極の刑罰である。動機が「被害者の犯罪」が発端である場合、被告が救いがたい人間であるか、国民が新たに人命を奪わねばならない罪であるか、判断する重要な指標となるだろう。
 また、殺人を行っていない場合でも、当人にとって殺されたに等しい被害を与える行為はある。たとえば、「被害者」が「加害者」を監禁同様にして、一切の権利を奪い、暴力をふるい続けた場合。性的被害を与えた場合。自殺さえ考えるほど追い込んだ場合。それらは、殺人、少なくとも殺人未遂に匹敵するとは言えないか。
 前述のような「厳罰化」が進行している現在、最高裁は慎重な判断を心掛けるべきではないか。

 ともあれ、この傾向を見て、私が気になることは、一つである。
 伊藤の上告審判決まで、どれほど時間が残されているのだろう?
 真島事件こそ、刑が本当に適切か、時間をかけて熟慮すべき事件だったのではないか。しかし、松原が手早く上告棄却されてしまったのは、前述の通りだ。
 伊藤を取り巻く現実は、冷たく、厳しい。最高裁は、事件の経緯に対し、真摯に向き合ってくれるのだろうか。