松原智浩の高裁判決が下された少し後、2012年3月末の信濃毎日新聞に、下記の記事が掲載された。真島事件の報道の一例として、アップしておく。
 なお、この伊藤の写真は、伊藤の現在とは全く異なっている。法廷での伊藤は、同一人物とは思えないほどやせ細り、今にも倒れるのではないかと思えた。

信濃毎日新聞・2012年3月末記事


 何とも奥歯に物が挟まったような記述だが、それでも『束縛から逃れるのが動機と主張』と書くなど「被害者の犯罪」に言及している。記者が伊藤に取材をし、伊藤のコメントも運用している。割いた紙面も、比較的大きい。信濃毎日新聞なりに問題意識を持ち、努力したのかもしれない。伊藤の高裁公判時にも、信濃毎日新聞の記者らしき人々が、今村弁護士を取材している光景がたびたび見かけられた。真島事件の被告たちが、長野地裁唯一の死刑判決を受けた者たちである、ということもあるだろう。しかし、真島事件の結末について、新聞社としても気にしている面があったのかもしれない。
 それらを認めたうえで、報道の在り方に疑問を抱く。殺人、出資法違反、傷害といった、明らかな犯罪行為を非難できない報道とは、いったい何なのだろう。
 警察も検察も、宮城殺害、金父子のヤミ金を認めている。松原が受けた被害は、地裁高裁の判決文にはっきりと認められている。伊藤の被害は、伊藤の地裁判決は卑劣にも認定から逃避したが、松原の高裁判決はこれをはっきりと認めた。伊藤の公判における証言や心理鑑定、養子縁組記録、伊藤の傷痕から、事実と認められるほど証拠も集まっている。のちの高裁判決では、伊藤の被害についてもはっきりと認定された。
 この報道の時点でも、「被害者の犯罪」は、事実と認定可能であったのだ。「被害者」ということになれば、どれほどの悪行を行おうとも、批判してはならないということか。

 また、「裁判員裁判の期日の在り方」という問題に仮託して、伊藤の判決に疑問を呈している。しかしながら、判決に婉曲に疑問を投げかけながらも、「制度の在り方」に疑問を呈するのみだ。「裁判員の判断」について疑問を呈することはない。この傾向は、真島事件の報道の節目で、たびたび見られた。「被害者」を批判することへの遠慮とともに、「裁判員」を批判することへの遠慮もあるのだろうか。
 しかし、批判精神は、報道の生命と言ってもいいのではないか。特定の立場の人間であれば批判しない、というあり方は、「報道の自由」「良心の自由」を、自ら投げ捨てる行為とは言えないか。