<検察官の弁論>  
 検察官は、以下のように陳述します。
 弁護人の上告趣意である違憲主張については理由がなく、そのほかは実質的に量刑不当の主張であり、上告理由に当たらない。しかし、事案に鑑み、若干の意見を述べます。
1・違憲主張について
裁判員制度が違憲であるという主張にほかならず、裁判員制度は合憲であると最高裁判例が出ており、主張に理由がない。
2・法令違反の主張について
 弁護人は、証拠調べが不十分であったと主張する。また、原審は被害者の属性などについて、全く一審と異なる事実関係を認定しながら破棄差し戻しを行わなかった、と主張する。しかし、破棄差し戻しを行う理由はない。
3・量刑について
 本件は、被害者を殺害し、金銭を強取する目的で、三人を殺害し416万円を奪い、死体を愛知県に遺棄した事件である。
 金父子殺害は、束縛から逃れ、共犯者への報酬を得て、生活費を得ることを動機としている。有紀子殺害の動機は、殺害計画の邪魔になるというものである。動機は自己中心的、身勝手であり、強い非難に値する。
 一か月半にわたり計画を立て、機が熟したと見るや実行に移している。殺害用の丈夫な紐、ビニール袋を用意し、二人、ないし三人がかりで、合計50分間にわたり被害者らの首を絞めて殺害している。長時間にわたって首を絞め続け、ついには絶命させた行為は、執拗かつ冷酷である。
 本件は、平穏な生活を送っていた三人を殺害し、金銭を奪っている。被害者二人と被告人のいきさつはともかく、被害者にこんな目に合う落ち度はない。有紀子は巻き込まれて殺害されている。
 遺族たちの処罰感情は峻烈を極めており、遺族全員が、被告人らの極刑を望んでいる。
 住宅密集地で一家三人が殺害され、県外に死体を遺棄されるという戦慄的犯行であり、社会的影響は大きい。
 被告人は、金銭を奪うなどの重要事項について、積極的に提案している。殺害実行、金銭奪取に当たって、中心的役割を果たしている。現金強奪の犯意は、極めて強い。
 事件後は、警官や被害者を心配する遺族に対し、平然と嘘をつき、無関係を装っている。犯行後の情状は極めて悪質である。
 犯行に果たした役割、動機を考慮すると、被告人の罪責は極めて重く、死刑はやむを得ず、原審判決は正当である。
 判例違反の主張であるが、弁護人の引用判例は、被害者一名の保険金殺人の事例であり、計画の謀議や実行行為に関与していない事例である。主張は失当である。
 弁護人の上告趣意は、いずれも理由がなく、上告は速やかに棄却されるべきである。
以上

  検察官の弁論は、10分もしないうちに終わった。弁護人に比べれば、圧倒的に短い。その間に、法廷に漂う気怠さは、隠しようのないものとなっていた。後に「長野の会」のメンバーに聞いたところによれば、検察官の弁論の間には、寝ている傍聴人もいたらしい。私はメモを取りながらも、時折、美しいアーチをえがく天井に視線を移していた。そこは、壁に掛けられたライトに照らされ、鈍く輝いていた。
 検察官の声や口調は、弁護人とは対照的に、だらだらとしており、抑揚がない。また、金良亮の名前を、リョウスケなどと間違えて読んでいた。やる気が感じられない。
 肝心の内容は、法律的主張については、他の死刑事件弁論から切り貼りしたような内容ばかりだ。事実主張は、控訴審までの論告・趣意書の切り貼りといったところか。作成は、さぞや楽だっただろう。
 ただ、薄っぺらな内容とは裏腹に、聞き流すことのできない言葉がいくつもあった。
 まず、動機の「自己中心的」「身勝手」という表現について。
 勿論、検察官が殺人を認めることができないのは当然だ。しかし、伊藤や松原は、犯罪から逃れるために事件を起こした。少し反撃状況が違えば、正当防衛となった可能性もある。そのような事件が「自己中心的」「身勝手」であり極刑しかないとすることは、被告たちの、自由・身体・生命を守るという最低限の権利を、「不当な権利」として否定するということだ。いくら形の上で言葉を尽くそうとも、罪の重さを表す唯一の言語は、量刑だ。
 専務の妻である楠見有紀子について。
当初から殺害を予定していなかったという点で言えば、「巻き込まれた」と言えるかもしれない。しかし、楠見は金父子の犯罪を知悉し、利益を得、協力していた。金父子の犯罪との関係からは、「巻き込まれた」とは言えない。
 また殺害理由を、楠見が「殺人の邪魔になった」と単純化することは正しいのか。楠見が金父子を起こせば、伊藤たちは確実に殺害され、家族に危害が及んだ可能性は高い。楠見殺害の動機は、金父子の危害から逃れる、緊急避難的なものとも言える。また、楠見が金父子の協力者でなければ、金父子殺害は止めたとしても、殺害計画を父子に隠してくれただろう。被告たちに恐怖とパニックから、殺害されることもなかった。
 最後に、金父子たちの生活は、「平穏な生活」と呼ぶに値するのか?
 金父子は、被告たちへの犯罪を除いても、犯罪の共犯者を射殺し、ヤミ金を生業とし、債務者を追い込んで幾人か自殺させている。真島の家は、もともとは自殺した債務者の所有していた家だった。平穏な生活とは、穏やかな、あるべき状態にある生活ということだ。金父子の生活を「平穏」と評するのならば、金父子が他者を苦しめるのは、あるべき当然の状態ということになる。苦しめられた人々の人生は、金父子に踏みにじられるために存在していたのだろう。
 ただ、これらの言葉の意味など、検察官にとってはどうでもいいことなのだろう。最高裁で、冤罪以外で死刑判決が覆った事例は少なく、量刑不当を理由とする減刑は二例に過ぎない。弁護人の弁論が松原の減刑に資する可能性は、極めて低い。だからこそ、弁護士の弁論に熱意と真情がこもっていても、虚しく響いてしまうのだ。弁護士の熱弁と検察官の継接ぎだらけの言葉。最高裁では、後者が尊重される。それが、この儀式に満ちた場所の、最大の儀式でもある。
「双方、これ以上、陳述はないですね?それでは、判決期日はおって指定します。それでは閉廷いたします」
 14時10分ごろ。裁判長はそのように述べて立ち上がり、法廷の奥に姿を消した。裁判官たちもそれに続く。傍聴人は慣例に従い、その後姿に起立、礼をした。そして、職員に促され、思い思いに退廷していった。これで、審理はすべて終わった。後は、判決を待つことしかできない。
弁論の所要時間は40分程度。傍聴券を配られてからの時間を考えれば、仰々しい儀式を見に来たのか、弁論を聞きに来たのか解らない。
 最高裁は、裁判員制度下で初めての死刑事件弁論だからか、警戒していた。事前に支援者の傍聴人数を、弁護人に問い合わせていた。儀式の在り方も、普段よりも丁重なものだった。しかし、蓋を開けてみれば、他の死刑事件弁論と何ら変わりなかった。
 今村弁護士は、法廷外のホールで、記者に話しかけられていた。今村弁護士が話を断ると、記者はあっさりと離れていった。
 裁判所の外で、松原の弁護士二人と顔を合わせた。今村弁護士は「お疲れ様でした」と声をかけていたが、二人はすぐに数人の記者に囲まれ、二、三言しか交すことができなかった。記者に囲まれたとはいっても、それは、地裁や高裁での囲み取材に比べると、数は少なく、話を聞き出そうという意欲も、乏しく見えた。
 私はほかのメンバーとともに、最高裁の門前から歩き去った。
 ふと、最高裁の法廷を思い出した。裁判官が要。弁護人や検察官が骨組み。扇形の法廷内には、被告人だけがいない。
 仰々しい儀式に満ち溢れる中、生死の境にいる人間だけが、欠けているのだ。