伊藤和史獄中通信・「扉をひらくために」

長野県で起こった一家三人殺害事件の真実。 そして 伊藤和史が閉じ込められた 「強制収容所」の恐怖。

 ブログをほとんど書いていないが、だいぶ遅くなってしまったものの、伊藤(辻野)和史の公判について書き残していこうと思う。
 現在は、伊藤は親を含めて周囲との交流を絶ってしまっており、送金に対して礼状を送るぐらいである。
 安倍政権が倒れなければ、無法な死刑執行は続くであろう。そうでなくとも、伊藤は再審請求を行っておらず、さらに交流を絶ってしまっていることもあり、危機的状況である。
 送金以外に、私にできることは、これしかない。とりあえず、細々と続けていきたいと思う。

 2013年5月30日15時、東京高裁805号法廷にて、伊藤和史の第二回控訴審公判が行われた。
 傍聴券は、今回は先着順であった。14時45分に配布予定だったが、少し早く、14時38分に配られた。39枚の傍聴券に対し、30数人がその時間までに来ていたらしい。
 法廷の前では、遺族のK・Kが、なぜか一般傍聴人に交じって並んでいた。遺族席の提供を、裁判所が拒むことはないと思うのだが。K・Kの方で申請を行わなかったのだろうか?
 伊藤は、前回と同じく丸坊主に眼鏡であり、白い長袖のジャージの上下を着ていた。入廷時の表情は、硬かった。
 予定通り15時に、伊藤の控訴審第二回公判は開始される。本日は、被告人質問である。伊藤は、裁判長に証言台の椅子に座るよう促され、被告席を立った。そして、傍聴席の方に深々と一礼し、証言台の椅子に座った。

今村善幸弁護士の被告人質問
弁護士「それでは、主任弁護人の今村から、話を聞いていきます。事件から三年以上経過していますけども、改めて、被害者の方について、いまどのように思っていますか」
伊藤「どのように、謝ればいいか言葉が見つかりませんが、謝っても謝りきれないことで、本当に、申し訳なく思っています」
伊藤は、前方に頭を下げた。
裁判長「被告人、もうちょっと前へ」
裁判長は、声が聞こえにくかったらしい。
弁護士「謝りきれないということなんだけども」
伊藤「はい」
弁護士「確認します。貴方の今の気持ちをね、どのように表していますか?」
伊藤「遺棄をしてしまった宮城法浩さんも含めて、殺めてしまった方々に、毎日祈っています」
弁護士「毎日祈っているって、何を祈っていますか」
伊藤「まずは、自分の起こしてしまった犯罪に対して、反省の思いと、被害者の方々に対して、ご冥福をお祈りしています」
弁護士「祈る時間は毎日決まっているんですか?」
伊藤「はい、特に、食事をする前です」
弁護士「なぜですか」
伊藤「殺めてしまった被害者の方々に対して、自分は図々しくもご飯を食べて生きておりますので、それが本当に申し訳ないという思いで、お祈りするようにしています」
弁護士「それは、お供えをするという意味もあるんですか」
伊藤「はい、もちろん、お供えをするという意味もあるんですが、その、被害者の方々に対して、できる限り、限界はありますけども、好物のものをお供えをしています」
弁護士「例えば、好物とはなんですか」
伊藤「それは、文夫さんは、ピーナッツだとか、オレンジジュースを好んでよく食べていましたので。長野の刑事施設では、オレンジジュースはあったんですが、東京拘置所ではオレンジジュースはなかったので、代わりに、野菜ジュースを。良亮さんは、ラーメンが好きだったんで、カップラーメンをお供えしています。有紀子さんに対しては、チョコレートだとかクッキーだとか、そういう洋菓子が好きなので、洋菓子をお供えしたりと。宮城さんは、缶ビール、おつまみであるスナック菓子が好物でしたので、好物のスナック菓子をお供えしています。東京拘置所に来てからはお花も買えるようになったので、できるかぎり、お花もお供えするようにしてあげていますし」
弁護士「うん」
伊藤「時々、支援者の方々が、お菓子をいただくこともありますので、自分が先に食べるとかではなくて、先にお供えをしています」
弁護士「お供え以外に貴方がしていることは、何かありますか」
伊藤「いま、写経をやっています」
弁護士「写経」
伊藤「はい」
弁護士「写経はどれくらいやっていますか」
伊藤「毎朝」
弁護士「写経っていうのは、どのくらいの時間がかかりますか?」
伊藤「部屋に時計はないんで、解らないんですけど、大体、一時間くらいはやっているかと思います」
弁護士「写経とは、そもそもどういう意味があるんでしょうか」
伊藤「仏様に対して、冥福を祈るというふうに、思っていますが」
弁護士「貴方にとって写経の意味は」
伊藤「自分にとって写経は、単純に、被害者の方々に対して、そういうような詫びること、ご冥福をお祈りしながら、次は、僕の意思でお世話さしていただくという思いで、自分の犯してしまったことに対して、反省の念を込める思いで、写経してます」
弁護士「写経と言うのは、どのようにやりますか」
伊藤「自分のやり方は、手や口を広げて姿勢を正してから、写経するように、一つ一つの文字を、心を込めて、唱写しております」
弁護士「その書き終わった写経っていうのは、どうしますか」
伊藤「一番最初に、写経したものは、居室内に小さい棚あるんですが、仏壇の代わりに使わしてもらうことを刑事施設に許可を受けて、いったんそこにお供えしてから、ある程度纏めてから、栃木県の大田原市にある、黒羽山大雄寺というお寺に奉納してます」
インターネット上で調べたところ、この寺の存在は確認できた。
弁護士「いま、お祈りとかお供え物、そして写経のことをお話ししましたが、それ以外に、何かありますか」
伊藤「それ以外に、限られてますけど、刑事施設の許可を受けて、教誨を受けています」
弁護士「教誨」
伊藤「はい」
弁護士「はい、その教誨はどれくらいの頻度でやっていますか」
伊藤「月に一度しか受けさせてもらえないので、毎月一回」
弁護士「やってると」
伊藤「はい、やっています」
弁護士「教誨とは、どのようなことをやるんでしょう」
伊藤「まあ、自分はそもそも、どこの宗派にも属していないんですが、仏教のお経を読んで、教誨師の方と一緒に、よみ慣れないお経ですけど、被害者の方を弔うために、よんでいます」
弁護士「その教誨を通じて、貴方は何を学びましたか」
伊藤「その当時、自分が人を殺めてしまったことで、冥福と言う言葉、意味を知らなかったので、少し教誨師の方に時間をいただいて、ご冥福と言う言葉の意味について、教えていただきました」
弁護士「冥福と言うのは、どのような意味ですか」
伊藤「教誨師曰くは、亡くなられた方に対してご冥福をお祈りするということは、亡くなられた方の幸せを想定していると。だから、亡くなられた方にこれからの幸福を祈り続けなさい、祈り続ければ必ずかないますよ、と言うことを教えてもらいました。そういうことを知りました」
弁護士「冥福とかお祈りとか、お供えとか、写経、教誨、それ以外に貴方がしていることは何かありますか」
伊藤「自分が人を殺めてしまう前の、当時の状況を振り返ってですね、ホンマに、殺害以外の方法がなかったのか、まだ別の方法があったんじゃないかと、いうことばかり考えていますし、そういうことを考えていく中で、事件の経緯について、思い出したことがあります」
弁護士「それはなんですか」
伊藤「まあ、端的にいますと、文夫さんが所持していた輪ゴムのお金についてですが、えー、自分が、松原さんに、えー、奪うように、話しています」
弁護士「話した」
伊藤「はい、それを思い出しました」
弁護士「それを思い出した」
伊藤「はい」
弁護士「思い出したきっかけは」
伊藤「一審の自分の、裁判員裁判の時に、松原さんの、出廷、証人として出廷されたんですけども、その時の調書を読んだ時に、少し色を付けたい、という言葉が目に留まった」
弁護士「何と」
伊藤「少し、色を付けたい」
弁護士「色を付けたい」
伊藤「という、それに自分、目が留まってしまって、長野の人で色を付けたいという言葉を使うかな、と思ったので。これは関西の、僕の言葉やと思って、思いだすと、(聞き取れず)という、思い出しました」
弁護士「どうして今となって、そのことを話すのですか?」
伊藤「そもそも、少しでも事実が明らかになるかと思って、被害者の方に対して、ご遺族の方に対しても、何らかの謝罪の意味になるかなと、思いました」
弁護士「事件のことで、それ以外に思い出したことはありますか」
伊藤「事件のことについて、それ以外のことについては、今のところ思い出せてないです」
弁護士「その前にね、貴方が解決する方法を考えたということですが」
伊東「はい」
弁護士「殺害する以外に、解決方法は見つかりましたか?」
伊藤「当時自分が、自分なりに考えていた解決方法は、五つあったんですけども、その中で、逃げるという方法と、自殺すること、殺害するという方法を除いた、二つの方法があります。これは、もっと深く考えて、強行していれば、こういう事件にならなかったかな、と思いました」
伊藤が逃げれば、金父子は伊藤の妻子を追い詰め、奴隷的境遇に置いただろう。伊藤が自殺しても、同様である。
弁護士「その二つは」
伊藤「まず一つは、警察に通報じゃないけど、相談するということと、自分が家族に相談してみればよかったな、ということでした」
弁護士「警察には、何を相談しますか」
伊藤「端的に言いいますと、自分の事。自分が、文夫さん、良亮さんにされていることを、相談するということです」
殺人や出資法違反を除いても、金父子の伊藤への行為は犯罪である。暴行、傷害、脅迫には確実に問われたであろう。伊藤に直接的に行った行為だけでも、実刑は免れなかったに違いない。
弁護士「一審では、通報できなかったと言っていたと思う。なぜ、一審で、通報できないと述べていたのですか」
伊藤「まあ、文夫さんと良亮さんが、刑事さんの方と関係があったので、まあ、通報できないと」
弁護士「どうして、今は通報できると思えるようになったんですか」
伊藤「一つは、自分が落ち着いたっていうのもあるんですけども、まあ、(聞き取れず)そして、その、文夫さんと、良亮さんと、ずっと一緒だったというわけでもなかったし、小学校に行くときだけは、大阪に帰ることもできたんで。その時ばかりは、文夫さんと良亮さんから離れる時間もあったので。それで、長野県の警察の方が信用できなかったとしても、大阪の警察であれば対応してくれたんじゃないかなっていうふうなことで。そこに逃げ込んだり、駆け込めばよかったと思います」
弁護士「二つ目は何とおっしゃいましたか」
伊藤「二つ目は、友人や家族に相談すればよかったなあと」
弁護士「これは、何を相談する」
伊藤「まあ同じく、文夫さんと良明さんから解放される手立てはないかっていうことです」
弁護士「当時は、なぜ相談しなかったのですか」
伊藤「文夫さんと良亮さんの世界に、巻き込みたくなかったからです」
弁護士「どうして、貴方の考え方や気持ちに、変化があったか」
伊藤「人の命について、考えるようになったからです」
弁護士「きっかけは何かあったのですか」
伊藤「自分が人を殺めてしまったこと、一審で、死刑判決が出たということです」
そして、今村弁護士は、伊藤の幼少時の体験について質問に入る。
弁護士「幼少時について聞いていきます」
伊藤「はい」
弁護士「前回の裁判で、お母さんの話は聞いていたね」
伊藤「聞いていました」
弁護士「お母さんの話によると、Mさん,実の父親ではないと。Tと。これは知っていましたか」
伊藤「お母さんの証言を聞く前に、検察官が教えてくれました」
弁護士「それまでは知らない」
伊藤「はい、知りませんでした」
弁護士「戸籍上の実父のMさんと会ったことは」
伊藤「いえ、会ったことはないですし、ぼんやりした記憶で」
弁護士「Tは」
伊藤「随分先に、会った記憶はあるんですけど、顔も忘れてしまいまして、ただ覚えているのは、背の高いがっしりした人やなっていうことぐらいで」
弁護士「Tと別れた後、貴方、託児所に預けられていたと。記憶は」
伊藤「ありますけど、そもそも、自分は託児所ではなくて、施設だと思っていました」
弁護士「なぜ」
伊藤「実際に、友人で、施設で育った人がおるんですけども、親が迎えに来ない、集団生活をしてるというのもあるし、自分の思うように欲しいもの手に入らない、まあ、いろいろあるんですけども、そういう状況が似ていたからです」
弁護士「迎えに来た頻度は」
伊藤「迎えに来たのは、」
弁護士「施設でなく、託児所というのが解ったのは」
伊藤「この事件で逮捕されてから、検察官の調べで知らされました」
弁護士「あなたとしては、家に帰れなかったという記憶ですか」
伊藤「そうです」
弁護士「託児所について、他には記憶はありますか」
伊藤「託児所の先生に叩かれるとか、お菓子をもらったり、でした」
弁護士「先生から、どう叩かれたか覚えてます?」
伊藤「平手で、頭叩かれたり、顔たたかれたりとか」
弁護士「当時、貴方は何歳ですか」
伊藤「当時は、3歳でした」
弁護士「入っていたのは」
伊藤「幼稚園に入園するまでです」
弁護士「お母さんは、再婚する」
伊東「はい」
弁護士「Yと母親の再婚時は、いくつですか」
伊藤「幼稚園に入るくらい、5歳です」
弁護士「5歳前。お母さんによると、Yには、貴方と同じくらいの年の子がいた。覚えてる」
伊藤「はい、覚えてます」
弁護士「連れ後の男の子の名前は」
伊藤「T」
弁護士「T君と、貴方の仲はどうでしたか」
伊藤「お互い兄弟ができたっていうのもあって、まあ、仲は悪くなかったと思います」
弁護士「Tへの、Yの暴力は見たことある?」
伊藤「あります。あの、殴られたり、蹴られたりよくありましたし、殴られたり蹴られたりしておしっこ漏らしたりとか、ウンコもらすこともあったし、恐らくストレスが原因だと思うんですけど、よく血便を出していました」
弁護士「お母さんによると、貴方もYから暴力受けていたと、覚えてる」
伊藤「はい、覚えています」
弁護士「どのような暴力でした」
伊藤「僕も、T君のような、殴られたり蹴られたりしてます。その暴力の中で、Yさんがあって、踏んづけられるように蹴られるので、あの、ということもあったし、オカンが、頭血流すぐらい殴られて、夕ご飯は、猫を飼っていたんですけども、二人で、猫のキャットフードを食べて、飢えをしのぐこともありましたし」
弁護士「母親も暴力振るっていたと」
伊藤「覚えています」
弁護士「どうやってですか」
伊藤「お母さんは主に、物を使って殴るんですけど、それ以外に素っ裸にされて、痣ができるほど殴られることもありました。よく殴られました」
弁護士「どんなもの使う」
伊藤「近いものなんですけども、いろんなもので」
弁護士「投げるか、叩くんですか」
伊藤「投げられるときもありましたし、殴られることもありましたし、殴られるときは、カバンの金具で殴られました」
弁護士「傷は残ってますか」
伊藤「今もちょっと残っています」
弁護士「どこですか」
伊藤「左のこめかみあたりです」
伊藤は、その場所を指さした。
弁護士「お母さんによると、貴方はYの姓は名乗りたくないといった、一緒に住みたくないと言った」
伊藤「覚えてますけども、お母さんも、Yさんも、暴力を振るっていましたし。お母さんは親だし、それで、その、Yさん」
弁護士「お母さん、迎えに来てくれたっていうのは」
弁護士「伊藤Sさんと、お母さんは結婚した」
伊藤「はい」
弁護士「貴方の年は」
伊藤「8歳です」
弁護士「暴力は」
伊藤「ありません。しつけくらいに、少し小突く程度です」
弁護士「母と伊藤さん結婚して、貴方自身に、心の変化は」
伊藤「端的に言いますと、自分、心を開けていなかったと思います」
弁護士「Sさんと結婚し、お母さんの叱り方、変化は」
伊藤「Y時代の殴りかけよりも、もっと激しくやられました」
弁護士「なんですか」
伊藤「物を使って殴られ、クラスメイトに痣を見られて、刺青や、ヤクザや、といじめられるようになりました」
弁護士「お母さんは、パチンコに依存していた」
伊藤「当時、母が家を空けていたことしか知らないので」
弁護士「小学校三年から中学一年までの生活は」
伊藤「お母さんから、門限は四時までと決められていて、弟の面倒見るように押し付けられて、家の家事をするようにもなったし。友達とも遊べなくなったし。その代わりに、スイミングを習わしてくれた」
弁護士「お母さんの言っていた借用書は」
伊藤「はい、自分は借りていない、宮城さんからの500万円の借用書です」
弁護士「お母さんの言っていたことで、違うことは」
伊藤「強いて言えば、自分が22歳の時に家を出たきっかけですけど、弟の方、大切にされ、寂しい思いをして、22の時、家を出て、もう帰ってくるなと言われ、ああ、愛されてないんだ、と思いました」
弁護士「お母さんへの思いは」
伊藤「母さんは、ほんとに難しい性格で、難しかった人ですけど、自分、人を殺めてしまったので、お母さんに、申し訳なく思います」
弁護士「少し、事件前のことについて聞きます。弁2号証を示します。これ、貴方の書いたものですね」
伊藤「そうです」
弁護士「完成後、見直した」
伊藤「はい、しました」
弁護士「直したいことはありますか」
伊藤「漢字が違うだけで、大丈夫と思います」
弁護士「言いたいことは、すべて言えた」
伊藤「述べられていると思います、はい」
弁護士「事件前、一番苦しかった時期は」
伊藤「まあ、どれも苦しかったですけど、時期で言えば、平成22年1月のころです」
弁護士「何がありましたか」
伊藤「平成22年の1月に、文夫さんは栄ビルを購入して、解体している時なんですが、文夫さん、良明さんと一緒にご飯を食べている時なんですが、自分の(注・伊藤の)妻子をスナックで働かせる、真島の家で住まわせて働かせると決められてしまい、苦しかったです」
弁護士「貴方の妻子を、働かされることについて」
伊藤「文夫さんにそう言われたことについて、頭で考えるよりも前に、強く、『そんなことできません』と言って、二人から暴力を受けました。その時はまったく痛みを、感じませんでした」
弁護士「その暴行時間は、短かったですか」
伊藤「長いか短いか、解りません」
弁護士「食事は、それからどうなりましたか」
伊藤「とらせてもらえないこともありました」
恐怖と暴力、過労に、飢餓が加わった。松原が伊藤に餅を持って行ってあげたのも、このころだろうか。
弁護士「平成22年、1月の体重は」
伊藤「70キロぐらいと思います」
弁護士「長野に住み始めた時は」
伊藤「平成20年の10月から、長野県に住むようになりました」
弁護士「当時の貴方の体重は」
伊藤「93キロです」
弁護士「急に減ったのは」
伊藤「健康チェックするアプリで、体重をチェックしてました」
弁護士「写真示します。これは」
伊藤「体重を記録するアプリです」
弁護士「同じものですか」
伊藤「はい」
弁護士「88.6キログラムとある。上になるごとに、記録は新しくなる」
伊藤「はい」
弁護士「6ページ目、2009年3月10日~2010年3月12日、一年の体重は、これでわかる」
伊藤「はい」
弁護士「どうして、体重を記録していたんですか」
伊藤「長野県で生活するようになったの、平成20年10月からですけど、服がだんだんぶかぶかになり、貧血も頻繁になり、変だなと思い、記録していくことになりました」
弁護士「貴方の身長は」
伊藤「168センチ」
弁護士「平成21年3月21日から、記録をつけ始めた。平成20年10月に真島の家に来てから、半年後からつけ始めたのですか」
伊藤「はい」
弁護士「4ページ目、2010年3月18日、83キロから86キロに、30日に増えている。これは」
伊藤「元々のサイズに戻そうと思い、必要以上に食事をとったり、それで・・・」
弁護士「平成22年1月というの、貴方、一番苦しいと言っていた」
伊藤「はい」
弁護士「その頃から、文夫さん、良亮さんを殺したいと思うようになったのですか」
伊藤「いえ、もう少し前、平成21年秋ごろです」
弁護士「何があったのですか」
伊藤「自分、自殺をあきらめたころです」
弁護士「その前の思いは」
伊藤「その前は、文夫さん、良明さんがいなくなればいいなと思った頃でした」
弁護士「自殺、諦めた経緯は」
伊藤「一つは、自分が自殺してしまったら、妻子が文夫さんに、捕らわれてしまうんじゃないかなって思ってましたし・・・自殺をしても、何も解決はしないと思ったからです」
弁護士「自殺をしようと思ったのはいつですか」
伊藤「誰かに相談しようとか、考えてたんで、いつというのは、ちょっと、断定できないです」
 今村弁護士は、この日はこれでいったん終わる旨を告げる。15時40分のことである。伊藤は、深々と傍聴席の方に一礼して、被告席に戻った。
 次回公判は、6月18日。弁護人の被告人質問後、検察官、裁判長から被告人質問が行われる。弁護人は、基本的に鑑定人への証人尋問後に、被告人質問を続行したい意向を述べる。
 こうして、控訴審第二回公判は終了し、伊藤は退廷する。私は、退廷する伊藤に「頑張ってください」と声をかけた。伊藤は、「ありがとうございます」と、少しこちらを向いて答えた。そして、出入り口の奥に姿を消した。

 ゼロ年代が戻ってきた。最近の性犯罪がらみの騒動や、岡口裁判官への罷免騒動を見て、確信を深めている。
 このブログは、伊藤(現姓辻野)和史をはじめとした、真島事件の被告たちを救済するために、はじめたものだ。今回の記事でふれる裁判長罷免キャンペーンは、伊藤たちの事件とは全く関係がない。しかし、伊藤たちを死刑へと追いやったものが、背後にあると感じた。

 ゼロ年代は、「被害者」「遺族」の絶対化と司法への関与強化、厳罰化が進行していった時代である。きっかけは、被害者や遺族への支援体制が皆無に近いことに、社会が気づいたことだった。しかし、それはきっかけであり、免罪符に過ぎない。犯罪の異常化・凶悪化という思い込み、犯罪の実態や刑罰の重さへの無知、矯正教育への無理解、「正義」への酩酊、「悪」を叩くことへの快感。これら無知と傲慢に基づいた、空っぽな快楽が、この時代を作っていた。
 この時代では、当然、「被害者」「遺族」への批判的言動は許されなかった。厳罰化や遺族団体に疑問を呈するものは、原田正治氏のような犯罪被害者遺族であっても、バッシングを受けた。その結果、伊藤たちの裁判が行われた2010年代には、「被害者」が犯罪を行っていても、批判すらできない社会に変貌していた。「被害者遺族」の政治的言動についても、何ら批判できない社会でもある。だからこそ、伊藤たちが「被害者」たちからうけた、強制労働、暴力、虐待といった犯罪被害は、量刑において何ら考慮されることがなかったのだ。
 今回の罷免キャンペーンからは、ゼロ年代に嗜まれていた、空っぽな快楽が透けて見える。

 2019年3月、名古屋地裁岡崎支部において、実の娘に対する準強制性交罪に問われていた被告に、無罪判決が下された。有罪率が高い日本においては、性犯罪も無罪となることは少なく、異例の判決である。しかし、異様な感を覚えたのは、この被告が被害者への性的虐待を実際に行っていたと認定されながら、無罪判決を下されたことだろう。
 認定の理由は、被告による暴行や、父子関係という支配されている環境が、被害者の抵抗を困難ならしめるほどのものとはいえない、というものだった。
 おぞましい実子への性犯罪であり、性的虐待を認定されたにもかかわらず無罪となった。それへの違和感自体は、十分に理解できる。私は、起訴された以前の性的虐待も、起訴することはできなかったのかと思う。そして、検察はより立証を工夫すべきだったと思っている。なにより、被害者に対しては心身のケアと、適切な医療が行われ、平穏な生活を回復できることを願っている。

 しかし、岡崎支部事件の虐待のおぞましさは、署名者たちの、不誠実、抑圧的な言動を何ら免除しない。
 
4月11日、女性たちが「無罪判決を許さない」として、日比谷でデモを行った。これは、上記の岡崎支部事件を含め、3月中に性犯罪に対して4件の無罪判決が相次いだことへの抗議だった。『性犯罪無罪許さない』というキャッチフレーズが、ツイッターで流された。また、ツイッター上では『性暴力の無罪判決の撤廃を求めるデモに来ました!!』『これ以上の無罪判決は許さない』といった言葉が乱れ飛んでいた。
 もちろん、判決に異を唱える権利はある。私も、伊藤たちの判決をさんざん批判している。しかし、それは公判を傍聴し、裁判記録を見た上でのことだ。このデモに参加した人々が、4つの事件の判決文全てを精査したという話は聞かない。また、岡崎支部事件以外の判決は、被告人の故意が否定されるか、犯罪事実そのものが否定された事案だった。虐待が実際に行われていた名古屋支部事件と、他の3事件の差を意識していたようにも思えない。
 そして、4月12日には、無罪判決を下した鵜飼祐充裁判長を罷免するための署名キャンペーンが行われるに至った。
 キャンペーンの主導者は、理由として以下のようなものをあげている。
『これほどまでに事実認定しながら法の適用に対して人としての「常識」「公序良俗」からかけ離れて「無罪」とした判決』
『これはまた国民にとって「精神的苦痛」を与えられている行為であります』
 何とも主観的な理由だ。「常識」「公序良俗」とは、誰の?また、これらは、裁判官のいわゆる「経験則」とも違うであろう。事実認定、法律適用がそのような曖昧なものに則って行われて良いはずがない。国民が「精神的苦痛」を抱いたとしても、それは判決とは何ら関係がない。
 この署名は5000人を目標とし、4月14日現在、4千数百人が署名を行っている。
 これの何が問題か?

 第一に、裁判官が無罪判決を出すことに委縮してしまう可能性が高い。
 日本の刑事裁判は、有罪率の高さで知られている。性犯罪も、99%以上が有罪である。被告人が無罪となるのは大変な事であり、よほど証拠が乏しい、あるいは検察の証拠が信用できないということでもある。無罪判決は、軽々しく下されているものではない。このような状態で「無罪判決を許さない」となれば、起訴された人間は絶対に有罪にすべきというに等しい。
 無罪判決を出すたびに、デモをされ、罷免を請求されるのであれば、裁判官は委縮せざるを得ないだろう。冤罪は増え、再審は完全に有名無実となる。
 
 第二に、「被害者」の絶対化がより強化されることである。
 ゼロ年代の空気は、被害者の犯罪・反道徳行為に批判を許さず、政治的言動への評価も許さないという点で、不合理かつ抑圧的なものであった。刑罰の実際の運用、犯罪発生率の推移、殺人の場合は酌量の余地のある事件が多いといった、最低限の知識さえも持ち合わせない人々により、熱狂の赴くままに議論が行われていた。しかし、それは裁判官の独立、三権分立、罪刑法定主義、というコップの内で行われていた。厳罰化を求める「あすの会」は、このコップを自分に都合の良い形にしようとしていた。しかし、事実認定の点には、なかなか手が出せなかった。今回の騒動は、そのコップ自体を粉々に粉砕するだろう。世論の熱狂を背景に、事実認定の在り方、法律の適用さえも動かそうとしているのだから。
 結果、情状面の認定だけでなく、事実認定までが、被害者の主張に沿わねばならなくなる。それは極めて不合理であり、冤罪を続発させるであろう。事実認定は客観的であるべきであり、被害者感情が触れて良いものではない。もちろん、「被害者」が被告にどれほど非道な行為を行っていても、情状として一顧だにされない傾向はさらに強まるだろう。
 今回の岡崎支部の判決について、「尊属殺人違憲判決事件」が引き合いに出される。実父から長期にわたり強姦された娘が、耐えかねて父を殺した事件だ。懲役3年6か月が求刑され、執行猶予の判決が確定した。「被害者」である実父の非道さは最高裁をも動かした。死刑か無期しかない尊属殺人という条文を、違憲として廃止させることにつながった。これは、「被害者」である実父の性的虐待という犯罪を、批判することにより、実現したものである。
 ゼロ年代以降の「被害者」が批判できない社会では、この娘を執行猶予にすることなどできなかっただろう。せいぜい、懲役15年に減刑する程度が精いっぱいだったのではないか。伊藤も松原も、性的被害は受けていなかったが、この娘よりもさらにひどい暴力と犯罪被害を受けていた。それにもかかわらず、考慮されることはなかった。
 今回の騒動の主導者やシンパたちは、「尊属殺人違憲判決事件」の娘に、同情的な言動をとっている。しかし、今回の騒動は、この娘のような被告人に、重刑を与える結果となるだろう。
 事実は不明であるが、4月11日のデモに参加した人の中には、性犯罪被害を受けた人がいるとのことである。なので、付言しておく。
 犯罪被害という「不幸な過去」を持つ人々であっても、その言動が批判や評価の対象となるのは当然のことだ。そして、行為にも責任を持つべきである。「犯罪被害者」という立場は、その人の言動を何ら正当化しない。

 第三に、検察官の権限強化、政治の司法への介入へとつながる。
 「被害者」とされる人間の証言を疑ってはならない、というのであれば、それは裁判官が「被害者」、ひいては検察の手下になれということである。検察官と被害者の主張は基本的に一致しており、被害者の主張に追従するということは、検察官に追従するという事でもあるからだ。当然、裁判官は検察側と被告側の主張のジャッジとしての役割を果たすことなどできない。
 また、求刑を下回る、あるいは無罪判決を下すたびにデモや罷免要求が行われるのであれば、政治家がそれを利用して、裁判官に圧力をかけようとすることも当然に考えられる。あるいは、政治家がそうしたデモや罷免要求を扇動することすら考えられる。当然、司法権の独立は損なわれる。
 「反権力」を主張しながら、この度のキャンペーンを擁護する人々は、そうした危険性を考えたことがあるのか?

 第四に、冤罪被害者へのさらなる抑圧へとつながる。
 冤罪被害者は、無罪が確定したのちも、「実はやっているのではないか」という差別に満ちた視線にさらされている。「無罪判決は許さない」というスローガンが正義として定着すれば、偏見が余計強まることは想像に難くない。

 これらの懸念について、キャンペーンの主導者たち、あるいはそのシンパたちは、何ら考えていないように見える。荒海の中で国民がしがみついている、「司法」という頼りないボートに、正義に酔いしれ、自らの言葉にシビレながら、穴をあけているのだ。
 21世紀になってから、あまりにも多くの物が壊された。来たる20年代は、何が壊されることになるのだろう。

 昨年は、これまでにあまり例を見ない、大量執行の年であった。安倍政権の「平成の大事件にカタをつけた」という、やってる感を演出するために、死刑囚とはいえ他人の生命を利用したのである。伊藤と松原への死刑執行には直接関係ないが、気持ちを暗くさせる大量執行だった。
 法務省は、新天皇の継承の儀式が終わるまでは、死刑の執行は行わない予定であると発表した。しかし、これが本当であるかは解らない。
 組織ぐるみで実習生へのアンケートを改ざんし、再審請求権という「裁判を受ける権利」を踏みにじって恥じない、違法務省とでも改名すべき役所である。嘘の情報を流すことなど、何とも感じないであろう。
 ただ、嘘の情報を流すメリットが考えられないのも確かだ。また、新たな死刑確定についてであるが、2019年は3人、2020年には1人ないし2人しか死刑確定しないと思われる。今年死刑執行を行わなかったとしても、死刑囚が急増する事態ではない。死刑囚の病死も考えられるので、今年執行しないでいても死刑囚の人数は減少するかもしれない。こうした事情を考えれば、継承の儀式が終わるまで、死刑執行を見合わせる可能性も大きい。
 しかしながら、継承の儀式が終わるまで死刑執行を見合わせるとしても、今年に執行が行われる可能性は高い。

 2018年12月27日、コスモリサーチ事件の二死刑囚に、死刑執行が行われた。
 二人のうち、河村啓三は、内省を深め、被害者と手紙のやり取りをするまでになっていたとのことだ。遺族は(一部かもしれないが)果たして、河村の死刑を望んでいたのか?あえて死刑にする意味があったのか?また、無理やりねじ込んだように、死刑執行を行わねばならなかったのか?
 河村の死刑については他にも思うところがあるが、詳しくはまた別項にて書きたい。

 ともかく、2018年12月27日、二人の死刑執行が行われた。法務省は、継承の儀式の間は、執行を行わない方針とのことである。その儀式は、2019年11月半ばまで続くとのことだ。
 事実ならば、今年の死刑執行に縛りができたことになる。しかしながら、安倍自民も、法務省も、検察も、執行のない年を作りたくないはずだ。あるいは、丸一年間、執行の空白期間を作りたくないであろう。12月27日という年末に、無理やりねじ込んだように執行したのは、空白を作らないためではないのか。
 つまり、2019年11月後半から12月27日までの間に、死刑執行が行われる可能性は高い。
 それにしても、私の考えが正しいのであれば、「空白期間を作らないため」という些細な目的のために、二人を執行したということだ。死刑囚とはいえ、人命を数合わせの手段として、利用したことになる。
 
 また、安倍自民や法務省・検察は、年間3~4人は執行しなければならないと考えているようだ。それ以上の人数を執行する可能性もあるが、一度でそれだけの人数を執行するには、念入りな準備が必要である。その手間を二年連続で行うことが可能か疑問だ。また、継承儀式終了直後に、そこまでの大規模執行を行う可能性も低いと思われる。3~4人への執行は、さしたる準備もなく、平時に行われたことが何度もある。
 以上を考えれば、その一度で3~4人が執行される可能性が高い。

 さらに、近年は確定から10年を超えた古参死刑囚への執行に、こだわりを持っているようだ。
 2017年に執行された4人のうち、3人が確定10年を超える古参死刑囚だった。また、2018年にオウム真理教死刑囚の13人と、コスモリサーチ事件の二人が死刑執行された。この15人のうち、7人が確定10年を超える古参死刑囚であった。オウム真理教死刑囚の執行は、古参死刑囚への大量執行、という側面もあったのである。

 以上から、新元号初年の死刑執行は、11月後半~12月中に、一度の機会で、確定10年を超える古参死刑囚が3~4人程度執行される可能性が高い。
 その顔触れは、2002年10月24日に確定した死刑囚から、2009年中に確定した死刑囚の中の誰かであろう。さらに、その中の冤罪の可能性が低い(注・私の感想であり、事実と異なる可能性もある)、あるいは、執行しても騒がれない32人の内から選ばれるのではないか。

 おそらく、今年に伊藤と松原が執行されることはないだろう。しかしながら、何一つ好転する兆候の見えない年となりそうである。

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