伊藤和史獄中通信・「扉をひらくために」

長野県で起こった一家三人殺害事件の真実。 そして 伊藤和史が閉じ込められた 「強制収容所」の恐怖。

 松原智浩の最高裁判決が、9月2日に指定された。

 最高裁弁論から、ほぼ一か月半。破棄減刑となるには、あまりにも早い期日指定に思える。
 もちろん、冤罪を主張して最高裁で破棄差し戻しとなり、大阪地裁で無罪判決を受けた、大阪母子殺害事件のような事例もある。この事件の被告は、2010年3月26日に最高裁弁論が行われ、同年4月27日に破棄差し戻し判決を受けた。ちなみに、第一次控訴審判決は、2006年12月15日である。控訴審判決から上告審判決まで、3年4か月。この期間も、長いとは言えない。
 しかし、最高裁がまともな反応を返したのは、証拠が状況証拠のみで、被告が冤罪を主張していたからだ。被告側の主張が取り上げられた例は、死刑事件の場合、無罪主張が殆どである。
 最高裁で、死刑事件の量刑不当が認められたのは、大阪の強盗殺人事件と日建土木事件の二件のみ。破棄差し戻しを受けて無期懲役に減刑された事件はあるが、高裁が被告の防御権を侵害した場合など、法令違反が問題となった場合である。それも、数は多くない。
 松原の判決について、楽観的な考えを抱ければと思う。しかし、現実的に考えれば、それはおよそ不可能だ。
 
 私の推測が外れることを祈りつつ、判決を待つ。

 この記事では、真島事件の被告たちに与えられた「強盗殺人」という罪名について、書いていきたい。なお、強盗殺人の法定刑は死刑か無期懲役であるが、それよりも減刑することは可能である。
 伊藤和史と松原智浩の罪名、裁判結果は、以下のとおりである。

<伊藤和史>
犯行時・31歳
罪名・強盗殺人、死体遺棄。
求刑・死刑
一審・長野地裁。2011年12月27日、死刑判決。
二審・東京高裁。2014年2月20日、控訴棄却。
現在、上告中。

<松原智浩>
犯行時・39歳
罪名・強盗殺人、死体遺棄
求刑・死刑
一審・長野地裁、2011年3月25日、死刑判決。
二審・東京高裁。2012年3月22日、控訴棄却。
現在、上告中。

 伊藤の真島事件の起訴罪名は、強盗殺人、死体遺棄。宮城事件については、殺害には関与していないため、死体遺棄のみで起訴されている。松原は真島事件のみの起訴である。
 「強盗殺人」という罪名に、首をひねったかもしれない。伊藤たちは、利益を得るために、人を殺したのか?答えは、もちろん否である。被告たちは、被害者たちから日常的に暴力を振るわれ、労働を強いられるなど、犯罪被害にあっていた。当然、金父子に怒りと恐怖を抱き、自由を欲して、殺害を決意した。裁判所の判決も、それを認めている。例えば、伊藤の高裁判決では、以下の通りである。
 『被告人は、文夫親子から解放されて家族の下に帰るために本件各強盗殺人に及んでおり、金銭奪取を目的とする典型的な強盗殺人とは、異なる面がある』 
 なぜこのような動機であるにもかかわらず、罪名が「強盗殺人」となっているのか。それには、まず、強盗殺人という罪名について、説明せねばならない。

 強盗殺人と聞けば、「金を奪う目的で、恨みのない人を殺した事件」と考えるだろう。しかし、実際には違う。
 強盗殺人という犯罪は、利欲目的、怨恨を晴らす、といった動機と無関係に成立する。成立要件は、「人を殺害し、その殺害行為を手段として金品を奪う意図がある」というものだ。つまり、殺害前に、「被害者を殺害し金を奪う」という意図を抱いていれば、強盗殺人は成立するのである。例えば「恐喝された恨みから殺害を決意し、これまでの損害の埋め合わせとして、ついでに財布を奪うことを企図し、殺害を行った」という事件。この動機は恨みであり、利益目的ではない。それでも、強盗殺人は成立する。
 それでは、伊藤たちは、自らが無給で働かされ、搾取された埋め合わせに、金を奪おうとしたのか?それも、否である。結果的に金銭を分配したが、伊藤と松原は、金を自分のために使おう、とは犯行前には考えていなかった。金を奪おうと考えた理由は、「被害者」たちの死体遺棄と関係があった。
 伊藤は、取引相手だった斎田に、金父子の死体遺棄を依頼した。斎田は金父子から被害を受けていなかったが、報酬目的に、死体遺棄を引き受けた。そして、伊藤に200万円の金銭を要求した。もちろん、金父子から搾取されていた伊藤に、そのような金はない。どこから金を工面するか。松原と話し合った結果、金父子が所有する金銭から、報酬に必要な分だけとることとした。そのため、「殺害の際に金銭を奪う意図があった」とされて、強盗殺人とされてしまったのである。
 伊藤たちは金銭を欲していなかったが、金銭を欲して犯行に関与した唯一の人間が、斎田であった。
 金父子は闇金であり、真島の家には隠し金庫もあった。金がほしければ、徹底的に家探ししても不思議ではない。しかし現実には、物置と文夫のバッグから、461万円を奪ったのみである。そして被告たちは、そのほぼ半額である200万円を、斎田に渡している。

 それでは、伊藤を減刑することは不可能だったのか?
 強盗殺人の法定刑は、死刑か無期懲役である。この点だけでも、伊藤を無期懲役にすることに、法律上の障害はない。しかも、刑法66条により、情状を酌量し減軽することが可能だ。また、伊藤は自首が成立しているので、法律上も減軽が可能である。情状酌量だけで、死刑を選択したうえで懲役10年、あるいは無期懲役を選択したうえで懲役7年まで減軽することができる。理屈上は、伊藤は懲役3年6か月まで減軽が可能ということになる。
 情状により、刑を減軽された「強盗殺人」も存在する。被害者1名の強盗殺人で、懲役8年に減刑された事件である。これは、「被害者」の犯罪被害にあっていた事例だ。典型的な利欲目的の強盗殺人でも、自首の成立、果たした役割の程度により、有期懲役に減刑された事件は、数多い。
 このように、裁判官が真島事件の実質を認識し、それを判決に反映すれば、無期懲役や有期懲役に減刑することも、十分に可能であった。

 伊藤に加えられた恫喝と暴力は、肉体と精神を傷つけただけではない。その外見にも、大きな変化を生じさせていた。

 信濃毎日新聞には、伊藤の写真が掲載されている。やや太り気味の、恰幅のいい青年だ。丸顔に満面の笑みを浮かべており、表情からは穏やかさと、積み上げてきた人生に相応の自信が感じられる。この写真は、伊藤が大阪に住んでいた時代に撮影されたものであり、宮城に監禁される以前のものである。
 私が伊藤を始めて見たのは、2011年12月に行われた、長野地裁の裁判員裁判だ。その時の姿は、アウシュビッツに収容されたユダヤ人を、彷彿とさせた。
 体は枯れ枝のように細く、肌は土気色であり、頬はこけていた。表情は暗く、瞳には不安がよどんでいる。未だに、監禁時の苦痛と苦悩が離れないようだ。歩き方は力がなく、瀕死の病人のようだった。少しでも触れれば、体がぼきぼきと折れ砕け、崩れ落ちそうに思えた。
 私は、目の前の人物が写真と同じ人間であると、暫しの間、信じられなかった。一審公判時の伊藤は、逮捕から1年8か月ほど経過している。真島の家での暴力と恐怖から解放され、体重を取り戻す時間は、十分にあった。それにもかかわらず、未だ真島の家に拘束されているかのように、弱り、怯えている。長野地裁に心理鑑定人として出廷した森武夫氏によれば、このような状態であっても、心理鑑定時よりは元気になったとのことである。逮捕直後は、どれほどひどい状態だったのだろうか。想像することができなかった。
 実際に、体重の変化も、著しいものがあった。
伊藤の体重は、金父子に拘束され、長野県で生活させられるようになった2008年10月には、93キロあった。服のサイズは5L、ウェストは1メートルだった。しかし、2010年4月に逮捕された直前には、体重は72キロ、服のサイズはLL、ウェストは86~88センチだった。
 2013年5月30日に行われた第二回控訴審公判では、伊藤がアプリで記録していた体重の数値が調べられた。2009年3月20日から2010年3月20日までの1年間で、始めが86.8キロ、終わりが72キロとなっていた。外見の変化、体重の変化、ともに法廷に証拠が提出され、証明が成されているのである。

 異常なまでの体重の変動の原因は、死と暴力への恐怖、絶え間なく与えられたストレスであろう。日中と夜間に働かざるを得なかったことによる過労、3時間程度しか睡眠が取れなかったことも、もちろん原因に違いない。
体格の変化は、真島の家に来てからの方が激しいようだ。宮城と金父子の犯罪行為の、どこが違ったのか。以下の理由が考えられるかもしれない。
 宮城は死に直結しかねない暴力を加えていた。しかし、金父子もヘルメットの上からハンマーで強く殴る、袋叩きにする、といった十分に酷い暴力を加えていたのである。金父子は刃物を使わなかっただけであり、肉体的暴力による苦痛と恐怖は、宮城も金父子も大差ないのではないか。
 そして当然ながら、伊藤は宮城に捕らわれていた時には、まだ殺人を目の当たりにしていない。殺される恐怖は、良亮の殺人を目撃した後の方が、現実性をもって迫ってきたのではないか。金父子も、その恐怖を最大限に利用し、伊藤を精神的に拘束した。
 加えて、金父子は宮城に比べて力を持っており、逃げた人間を長野から関東、関西にわたり、追い詰めることのできる権力を持っていた。
 また、宮城に捕らわれていた時には、伊藤は妻子と離ればなれにされていなかった。プライベートな時間の制限も、真島の家の方が酷かったようだ。伊藤は、家族のもとに帰らせてもらえず、休日も金父子や楠見の遊興のアシとして使われていた。鍵のかからない部屋に住まわされ、行動を逐一報告させられていた。他者との隔離と、行動の事由の徹底的な剥奪は、孤独と無力感を与えただろう。

 地裁の審理では、裁判官は真島の家での傷について「出血したのか」と執拗に尋ねた。裁判所は、出血の有無などの目に見える傷に被害を限定しようと、非常に努力されていた。加えて、地裁も高裁も、金父子の暴力を宮城のそれと比べて、矮小化しようとしていた。しかし、伊藤への暴力は、肉体的な被害に限定されるべきなのだろうか。
 2013年7月16日の控訴審公判で明らかにされたことであるが、『文夫さん、良亮さんの操り人形になっているという思いでした』と伊藤は供述調書で述べていたことがある。この感覚について、同日に行われた被告人質問で、伊藤は以下のように答えた。
 「文夫さんと良亮さん、僕はその世界を拒否しているんですけど、体は、暴力により服従してしまっているという状態です」
 また、同じく調書で、『操り人形になると思うと、身も心も、もたない思いでした』と述べている。手短ながら、精神的拘束による無力感と、苦痛、恐怖について述べているのではないか。この言葉の趣旨についても、短く被告人質問が行われた。伊藤は、次のように答えた。
 「肉体的、精神的に限界なのか、超えているのか解りませんが、そういう状態でした」
 このような精神状態から、伊藤は心理的視野狭窄に陥り、事件へとつながった。伊藤の犯行時の行動だけではなく、実質的にどれほどの被害を被ったかについても、精神的拘束を併せて考えなければ、理解できないのではないか。
 真島の家では、強烈な暴力に、死の恐怖と徹底的な自由の剥奪、精神的拘束が加わった。それが、異常なまでの体格、体重の変化に現れているのではないか。

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